2016年1月11日(八段語録2654)
決意を煮詰める日となりました。

 こうしてブログを発信してから、長い期間が過ぎてきましたが、それはどんな内容であれ、私の人生の一端という事です。この時代に生きて、あらゆる創造力ある発想の中から、自ら責任を持って、選択した結果の人生という事です。このようにブログにアップして、誰かの役に立てばという思いが大きいのです。確かに紆余曲折した人生ですが、ただ葬られてはどうしようもないと思って、表現しているのかもしれません。もちろん、ため息と汗と涙、喜怒哀楽の全てが結晶していますから、時には暴走と感じることもあります。それでも、正直な自分の心の判断なので、受け入れるようにしているのです。そのような自分にしか歩むことができない道を、甘受して受け入れたという事で、あらゆることもいとわず、歩んできた結晶ということでしょう。様々思考を凝らしても、このブログは事実と、それに伴う私の発想であるから、レベルがどうあれ表現し続けるという事に成ります。
 さて、道場生の希望は何かという事です。それは、単純な事です。しっかりとした「人」になるということです。そのしっかりとしたレベルを見出そうとして、極真空手という入り口から歩み出したという事です。世間には、あらゆる登り口があるのです。そのあらゆる中から道場生は、極真空手を選択したことになのです。その選択の期待に応えようとするのが、私達指導者であると思っているのです。こうして選択してくれた道場生に対して、この道を放棄して欲しくないという事が、私の願いという事です。その為に、私自身日々努力という事です。この道に出会ったからには、人生が願うレベルを私達指導者に、見出してくれたとするならば、これ以上の幸せはないという事です。それで、どれだけ多くの道場生を、しっかりとした人間に導いたかという事に関しては、まだまだ不十分であると思っています。
ところで、私は極真空手道という衣を着ていることに気が付くのです。この衣を着て日々生活しているのです。別に装飾品のように着飾っている訳ではないのです。この衣を着る理由は、結局「自分が良くなる為」のものなのです。極真の道を歩むという事を意識することで、内面の輝きを放とうとするのです。そして、この道を大切にしようとするのは、極真の恩恵を受けるという事を願うのです。その為に、全力投入してでも、完全な内容にしようと思うのです。そのような意味でも、誠を尽くすという気持ちになります。言行一致による実践と、内外共の良心生活を持って、この道を究めるという事です。まあ余談ですけれど、誠は言偏に、「成」という事ですから、この言葉を大切にしようとしている訳です。それ故に、後世になっても感動するような誠という事に成ると、そこに全ての人の考えと愛情が連結されるのではないかと思うのです。
何はともあれ、この極真に対して、誠を込めて訪ねて歩んだので、したがって、極真精神が私を訪ねてくれるはずであるという確信を持つのです。それが私自身の根源的な歩みになったという事です。まだまだ花咲いている訳はなく、成長途上であると思っているのです。還暦を過ぎて、第一章が終わったという事でしょう。これからの人生は第二章の始まると、位置付けているのです。そのような貪欲な気持ちを前面に出して、「成長と覚醒」の年として、決意を煮詰める日になりました。