2016年1月9日(八段語録2652)
極真の指導者の位置は素晴らしいと世間に求められるように

道場生の教育は、いろいろな人が関わることが大切です。道場生が児童でしたら、両親はもとより、学校の先生、地域の大人達、そして道場生のであるならば、指導員をはじめとするスタッフの面々の関わりが必要になるということでしょう。それも、信じられ信頼されるレベルを保つことが必要になってきます。例えば両親の言うことが聞けなくても、空手の指導員には信頼して、委ねることができるような関係が必要であると思うのです。考えてみてください。誰にも話すことができないことでも、指導員に話して難を乗り越えるということがあるのです。それが天地に誇ることができることであるし、私たちの存在も高まるというものです。道場の指導者はこのようなことから始めるべきです。ただ空手だけを教えるという指導者はならば、実に薄っぺらな指導者はであるということです。
そのように、指導者が単位空手を指導するだけではなく、精神的支柱になることができるように、身を収めていくということが必要であると思っているのです。そうでなければ、極真でも、なんでもないということでしょう。このグループがどうであっても、一人一人の指導者が、地域の子供達に愛情を持って接するとするならば、公認されることは間違いないことです。そのことゆえに誇りを持つことができるというものです。これが社会貢献に連結されることであり、評価されることになると思うのです。極真に集ってくる人達は、国が違い、文化背景が違い、国境をことにして自分たちの歴史を持っているわけですから、それを全部ひっくるめて、面倒見るつもりで行くことが必要であると思うのです。そのような意味では、地域の父親のような役割を果たすのが男性の指導者ということになると思うのです。
ところで、早速稽古が始まりました。今年の初めの稽古ですから、「心して取り組まなければならない」ということです。道場生に対しても、指導者に対しても、そのように指導するのですが、一番に心しなければならない人がいるとするならば、「私自身」ということです。緊張する気持ちを、どのように具体化するかということになりました。師範室に入って、掃除は大晦日に行ったのでしたが、もう一度念入りに掃除をすることと、気分を変えることも含めて、机や書棚の配置換えをすることにしました。今年は当然の去年とは違うという気持ちを抱くためということです。そして、スケジュールに穴があかないように、ホワイトボードを利用して、約束の日付に書き写すようにしたのです。とにかく今年は始まりました。どのぐらいの本気度が必要なのかを自分の物差しで計っていきたいと思っているのです。
夜遅くなりましたが。家族が迎えてくれます。ありがたいことです。孫の士紀雅も居間に来てくれます。家族が一一緒にいるという幸せは、何とも言葉に出すことができないのです。家族それぞれ、個人の課題はありますが、しっかりと挑戦しているのです。それなりに頼もしいと感じるのはまさに親バカということに尽きると思います。そのような幸せな時間を過ごして、何とも言えない満足感を感じながら休まさせていただきました。