2016年1月5日(八段語録2648)
師範の重み

 道場で平素使う言葉があります。それは師範という言葉であります。極真会館宮城県本部には、三人の師範がいます。その言葉は簡単な言葉ですが、私達の道場の歴史を振り返ってみると、重要な内容が秘められているのです。極真会館を創設した大山総裁の伝統を引きついた手塚会長の歩みが重なり、その数十年の歩みが連なっており、そこに私が、会長と共に歩んだ歴史があり、私と共に責任を持って、この宮城県本部を築いてきた時代を二人の弟子が継承してきているのです。この事実は誰にも消すことができないのです。
この歴史は、まだどの図書館にもないのです。これから後輩が語り継いでいくことであり、ホームページで一部は発表され、ブログで紹介されているだけなのです。師範という言葉は、どこにでもある言葉ですが、極真会館宮城県本部の、その言葉は、私達だけが持っている意味深い言葉であり、私達の間で価値が評価されている言葉なのです。考えてみると、古くから師範という言葉は使われてきましたが、いろいろな武道団体で、偽りの師範もいたことであろうし、いい加減な師範もいたことであることは、察しがつきます。
 さて、この宮城県本部で、社会に貢献してきたことは、二十年の歴史が証明するようになるのですが、純粋に極真空手で指導してきたのです。膨大な武道精神の内容を一つ一つ手に取るように指導して、それを確実に教育して、原則を守って、しっかりとした地に足を付けて歩んできたのです。決して愚連隊やヤンキーの、たぐいの人材を育成してきたわけではないのです。この師範という言葉を持ってして、何を知ることができるでしょうか。師範達が極真の伝統を継承し、そして、弟子たちに伝えていくということなのです。そして、師範という称号を得るためにも、相当な努力を積み重ねてきたということは言うまでもないのです。
 ところで、私たちは、何を隠そう武道精神でありながら、その中でも極真精神を培ってきたのです。映画や雑誌で紹介されたのはほんの一部なのです。この修行は、肉体の強化だけではないのです。精神的に大人になるということなのです。例えば、一例ですが、人を憎まず、罪を憎むように歩んできたのです。そのことを強調してきたのは、極真ではなくなるのを恐れたからということです。そして偽りになってしまいはしないかという気持ちからでした。それゆえに、極真会館は、どこの国へ行っても、憎まれるということはないし、世界の道場生と手を取り合って歩んでくることができたということです。足で砂をかけて出ていった人に対しても、除名や破門という手段は使わなかったのです。いつでも戻ってくることができるようにという配慮は忘れなかったのでした。今でもかつて修行したメンバーが極真精神に戻ってくることができるように門を開けているということです。
 このような事を今日は表現してしまいました。消防団の梯子乗りの事前訓練があったり、告別式があったり、様々忙しい一日でした。そして、今年どのようなレベルで歩んでいくかという決意のひと時にもなっているのです。親戚が集まっての会食をさせていただいて、いろいろな刺激も受けました。私が人生という一生を終えるまで、やらなければならない事を思案しながらの食事でした。