2012年2月23日(八段語録1601)

自分に対する姿勢 2


 何か引きこもるような気がするが、それでも朝の修業から始まるのです。親父を亡くした後ですので、「あの世」の存在を意識する日々が続きました。百日の法事もすみ、一段落なのです。それでも、私にとっては、「この世」しか知らないわけです。葬儀も終えて、「この世」は、さらに大きな世界の一部であるかもしれないと思いますが、「あの世」が存在すると信じることが、「この世」で生を受けた者が果たすべき、最も大きな役割であると感じるのです。今の私は、「あの世」を確信しているのです。親父という最愛の父を亡くしているのでことさらになのです。「この世」に残されて私は、親父の願いどおりに生きたいとも思うのです。
 確かに「この世」で現実的な生活をしているのですが、すべてが「おそらく」という、あいまいな考えで生きているように思うのです。過去を振り返っても「おそがく」が付きまといました。大げさかもしれませんが、人生の全ては「おそらく」によって決定されているのだと思うのです。振り返っても、今何故このような状況で生活しているのか、見当もつかなかったのです。若き日に描けたかというと、考えることすらできなかったのです。
 もう少し掘り下げて考えてみるのですが、「おそらく」を抜きにしては、勝利感を味わう事が出来なかったのではないかと思うのです。この不確定さが、誠実な行動も、勇気ある行動も、冒険に満ちた人生も、今まで自分なりに推進させてきた訳なのです。
 ところで、このような事を振り返っているのは、人生危ないばかりで、いつ何時誤りを犯しかねない状況にあるのです。その事を考えると、私がこうして生きてられるのは、結局は、絶えず危険を冒しながらでしかないという事なのです。明日、生命を奪われるかもしれないという事なのです。そんな人生ですから、信念として必ず実現させてやるという固い決意に満ちた人生を送った方がいいという気持ちになります。今取り組もうと考えていることがあるのですが、不確定な未来の実現に向けて分からないという結果でしかないのですから、何かを貫いて実現するという気持ちが必要なのではないかと思うのです。
 結論として、極真会館の発展の為にあらゆる努力をしたいし、妻の下宿業を最大限手伝いたいし、多くの悩みを抱いている人たちの救済を積極的に取り組みたいし、還暦を迎えようとする私自身の研究に没頭もしたいのです。実に欲張った生き方が目前に広がります。何の保証もない「おそらく」の世界なのだから、信念だけが頼りなのです。そんなことを考えていました。