2012年2月20日(八段語録1598)

希望


 年齢や経験で生きがいを考える時ではないような気がします。私を動かす原動力は、家庭であり、それに伴う希望なのです。今まで、自分を動かしてきたパワーは、ドキドキするほどの気持ちなのです。人生へ出発する為に、家を後にした時も、ドキドキしていました。妻との出会いは、もはや心臓が張り裂けそうになりましたし、息子娘の出産のときは、ドキドキしながら、立ち会って、妻の分娩で、私の胃に穴が開いたくらい、刺激的な出来事でした。家庭生活は、妻との二人三脚で刺激の中で生きてきたのでした。更に、子供達の成長は、いつも心臓をバクバクさせながら、子育てに携わってきたのです。
 自分の家族は、やがて成長して、新しい家族が得られるという希望があったから、どんな事にも耐えることが出来ました。私には、希望があったので、息子の結婚も、一発回答です。若き日に出会った伴侶に感謝しなさいという表現を息子にするだけでした。それは、希望がより重なり合って、私を最大刺激してくれたからなのです。妻と二人で、子供を授かったという出来事は、二人の人生にかけがえのない希望を与えてくれました。もちろん、簡単な子育てでは無かったのです。まさに波乱万丈を字でいく人生劇場でした。
 そのような意味では、いつも私達を取り巻いたのは、希望の何ものでもなかったのです。聖書の中に、もし、からし種一粒ほどの信仰があるならば、この山に向かって「ここからあそこに移れと言えば、移るであろう。このように、あなた方にできないことは、何もないであろう。」とマタイによる福音書第十七章に記載しているように、希望を持つならば、何もできないことは無いのです。そんな人生を歩んできました。
 当然、倒れそうになったことも何度もありました。しかし、私には意地があるのです。最大の名誉は、決して倒れない事ではないと思っていたのです。だから、倒れて再び立ち上がることに意味を感じていました。目標をあくまでも貫く事が出来るのは、気概あるものの精神が、がっちりとして、支えようとする筋金の一本であると思えたのです。そして希望を抱きながら挫けないのが、人生の醍醐味の最大の条件であると思うのです。このような気持が無ければ、いかなる才能を持とうが、方針を失い、だた、やたらにエネルギーを浪費するだけなのかもしれないのです。
 そのような事で、今、私も希望に向かって前進しているのです。そして、あらたなるチャンスが生まれてきそうなのです。決して逃がしません。人生すべては、機会だからなのです。人生で、自分ながら一番先頭に行こうという、やる気があり、思い切って実行しようとするのです。「安全第一」何という事を守って生きることはしないのです。やるべき事は、人生の大海原に、船を漕ぎ出すことなのです。