2012年2月7日(八段語録1585)
勝利する秘訣
意気消沈している暇もなく、次の次元の戦いをしようとしています。初めて火曜日の国見教室で指導をすることになりました。第一回目です。いつも思う事は、日々が過ぎ去ります。在ったことを、後生大事に抱いている時間はありません。やるべきことが余りにも多いのですが、しっかり頑張ろうと気合を入れるのです。国見教室を指導するにあたって、心掛けることは、想像力を発揮して、優れた指導をしようとすることです。昔の極真スタイルを思うと、師範の指導が、教室全体を覆っていたのです。当然、指導員は、師範が指示した通り指導するのです。今考えるならば、滑稽で仕方がありません。全教室がまるで師範のロボットのように動いているという事なのです。そのような事は、弟子として、初期の時には良いと思うのですが、それが続くようであるならば問題が生じます。
かつては、指示した通りの指導が出来なければ、師範から批判されるのです。今考えるならば、人が育たない組織という事になります。組織の中で、一人ひとりが想像力持って、あらゆるものを構築していく事は、組織の力の源泉になるのです。組織に想像力が無かったならば、発展はありえないのです。もう既に、その師範一代で終了してしまうだけの事なのです。
私が最近考えるのですが、私が行動していく事に関しては失敗がつきものですが、神仏がなさることには失敗がないのです。それ故、私が行動するたびに、神仏を信じ、一体だと実感する事が出来るとするならば、当然失敗は無いという事になります。つまり、私はいつも勝利する事が出来るのです。
このように勝手な屁理屈をつけるのですが、それでも正当化しようとするのです。私は、武道を通じて、神仏を尊ぶという事を覚えました。武道を究めるとこのような境地に至るのです。神仏を尊ぶという事は、宗教に専用物ではないということです。人は本当に何かを願う時に、結構祈るのです。それも真剣になって祈るのです。そういう意味では、道場生にどんどん祈りなさいというのです。祈りは、夢を実現するための架け橋なのです。その過程を通じて、より確かな意識を確立し、実現する糸口が生まれるのです。私はよく、道場生に瞑想させます。特に稽古で組手をした時などは、精神的に高揚します。高揚した気持ちを抑える働きもありますが、人間本来の持つ能力が、湧き出るように思うのです。
ところで、祈りという事を考えてみて、優れた宗教は、結局、同じことを教えているのです。もちろん、どの宗教も私達の経典が優位であると主張するかもしれませんが、私からするならば、どうでもよい事なのです。人は心に描く如くになるというのが現実なのですから、それが分かれば、祈りの習慣も良いのかもしれないのです。私は、今日も祈り続けます。何故ならば、私に必要であるからなのです。