2012年1月28日(八段語録1575)

人生の目的


 私は、両親の結婚によって、奇跡的にもこの世に存在するようになったのです。親父は、金森という地主の娘を運よくゲットしたというのです。お袋の信念は、姑がいない家という事を念頭に置いたというのです。その時に親戚の叔父さんに紹介されたのが親父だったのです。洋画やラーメン屋に何度かデートして、親父の首の太さを見て、お袋は、この人なら大丈夫だと確信したそうです。さらに、ある時、梨畑で、大きな梨を親父は剥いていたそうです。お袋は、自分だけおおきい梨を食べるのかと思っていたというのです。ところが、その大きな梨を、ナイフで切ってお袋に渡したのだそうです。それが、最終的にお袋が結婚を決める動機となったというのです。
 ある程度、結婚話が進行して、親父は、荷車で母の実家の金森家までお袋を迎えに来たそうです。当時お袋は四十数キロの体重で、軽々荷車に乗せて、汗を掻きながら仙台に下りてきたそうなのです。台原という地名の所は、昇りの急な坂になっていて、必死に親父はお袋を乗せた荷車を引いたそうです。お袋は、親父がどうしても私と結婚したかったのだと、うぬぼれていました。
 その後、平成の伊藤さんのアパートを間借りして、生活が始まったというのです。「うどん」も塩で味付けして二人で食べたそうです。親父はその時、行商に出て、衣料品を販売していたのでした。親父は人が良すぎて、売掛は多かったのですが、回収が出来なかったそうです。それを賄うかのように、お袋は洋裁で内職をしながら、細々と生活を始めたという事でした。
 そのような二人の出会いと、仲睦ましい新婚家庭から、私が生まれたという事でした。そのような私が、青春時代に差しかかって、何のために人生を歩むのかと考えたのも、無理なからぬ事でした。人生の目的を両親のように生活していこうと思ったのです。つまり自分で仕事を見つけて、母のような人と結婚して、家庭を持つということでした。そのために、才能を発掘するために、勉強をして大学を卒業して、学位を取得しようとしたのです。才能を世間に公表し、それにふさわしい生活を獲得して、それによって生活を満喫しようとしたのが私の初めの人生の目的でした。
 さて、人生は自分が考えて通りに生きなければならないと思っていました。そうでなければ、生きた結果にしか考えることが出来ないと思っていたのです。費やした人生が、無意味な人生であったとしたら、そのように考えていたはずなのです。それで事足りた人生であったのでしたが、高校生の時に、神が召命するかのように、社会の為に何かできないかという事を考えたのでした。この時に、自分の考えを大切にしたのでした。そして、社会貢献という考え方は、自分の人生という道程を無限に繋いだのです。その原点が、精神を磨くという事でした。自分において、精神の他に、偉大なものは存在しないという思いにさせられました。そうしていくうちに、博愛精神とか利他主義とか、愛情豊かに人間性という方向を目指したのです。
 そして、この「精神」を愛情と置き換えた生き方に転換したのでした。あたかも肉体にとって、栄養素がとても重要です。この自然の恵みの中で、吸収して成長したのです。それと同じように精神への栄養補給も大切であるという信念を持ったのです。愛情というキーワードに対しては、ことさら意義と価値を感じたのでした。人生を振り返って、食べるために生きた人生ではないのです。生きんが為に食べたというのでもないのです。若かりしときから愛情を豊かにするための食物を選んだ人生であったのです。この生き方を思い通りに実践してきたのです。この信念で、自分の人生をデザインして、私が主役で、ほかの人が手を出すことが出来ない人生を歩んだことになるのです。