2012年1月25日(八段語録1572)

価値ある存在


 誰もが、素晴らしい存在なのです。そのことを誰にでも感じてほしいのです。どんな人でも不必要な存在はいないのです。人は誰も個性を持っていてユニークなのです。それも全員異なった素質を持って生まれているのです。そのような事を感じて、岡山の津高さんと別れたのでした。人とは、こういうものであると描いた分だけ、そういう存在になれると確信しているのです。
 彼とは、二十数年ぶりの再会でした。そして大いに語り合ったのです。その人生が、私が思うに、紆余曲折はあったにせよ、掛替えのない人生であると思えて仕方がなかったのです。もちろん、課題は,私と同じくらいあるのです。それだからできるだけ高貴で誠実で立派な行動がれて、愛情豊かな存在に成長しようとお互い思えたのです。
 とにかく、自分の人生を歩んでいるのです。誰の人生を歩んでいるのではないのです。そのような事を考えると、自分がこの世の全てであるという結論を出すべきなのです。誰の人生ではなく、自分自身の人生なのです。誰と比較する必要もないし、今歩んでいる人生を深く掘り下げていくだけでいいのです。そこから、素晴らしい、生命の増し水がわき出るのではないかと思うのです。もう頼るべきは、自分の力なのです。
 そのような事を語り明かしました。また実際に私の生き方を話したのです。もちろん、津高さんの家族と人生は、私と比較するようなものではないのです。そのことで、優劣を競うようなことでもないのです。彼も五十歳になっていました。これからが本番であるとお互い話したのです。ちょうど私の三番目の弟と同じ歳なのです。それだけに親しさは深いのです。
 彼は、岡山で生活しているのです。生活習慣や風土、あるいは宗教の違いはあっても、同じ地上に生を受けて、家族を持ち、今生きているのです。そのような意味では、だれもこの大宇宙から祝福されている存在なのです。それで無限の力を持って、雄弁に人生という物語を綴っていこうではないかと話し合いました。
 ところで、私が若かりし頃、劣等感とかコンプレックスを持っていた時期がありました。自分が人より劣っているという自己評価をしていたのです。その評価は紛れもなく、自分自身でした。私の周りには、空手も強く、人間的にも魅力あふれる人達がごった返していたのです。当然、私は内容において比較していたのです。劣等意識は、そのような先輩と比較していたから起こったのです。
それでも、修業を続けながら、劣等感を押し殺して道場に通っていたのです。ところが、素晴らしい筈の先輩達が、極真空手を去っていきました。それも全日本大会で優秀な成績を上げて、マスコミでも、脚光を浴びた人たちだったのです。自分の欠点ばかり気になっていた私でしたが、この極真会館に残っていることの方が、価値あると思うようになってきたのでした。
そのうちに劣等感は消え失せて、この極真に残っているのは、私ではないかと思うようになっていました。そのような事を思うと、人生途中で、どうのこうのと判断すべきではないと思うのです。そして、胸を張って更なる努力を重ねていこうと心に決めるべきだと思うのでした。