2012年1月3日(八段語録1550)

人生の悲しみを克服する為に


 寒い街を一人歩き回りました。それも背広一つですので寒かったのです。何故かというならば、自分の感情をどのようにコントロールするのか、私の運命を大きく左右していくと、感じていたからなのです。自分自身を愛することは、短くしなければならないと心に言い聞かせるのです。そして、世界と人類の為に何ができるかを、一生懸命祈るような気持ちで取り組むのです。それが出来なければ、人生を勝利することは、甚だ難しいのです。というのは、人間を導くのは常に感情なのです。それ故、原点を理性に置かなければならない時もあるのだという気持ちになるのです。原則的な表現ですが、理性が人を創造するのです。
 私の心は、悲しい出来事に出会う度に、幼稚になっていることに気が付きます。一部分がそうであるのかと自分に問えば、もう既に残りの大部分も子供っぽいのです。そして、感情は、私にとって絶対的なものになっているのです。とかく、私は、言葉を探そうとして人生を行脚します。しかしながら、実に感情に左右されている毎日なのです。だから、感情のコントロールを一生懸命にしようと試みているのです。
 正月中、私の心は、生死を考え続けていました。当然親父の死の回想も何度もしていました。それで成功に満ちた生き方ができるかというならば、難しいのです。深い悲しみが心を覆った時には、その心を直ちに、勝利と成功に置き換える努力が待っているのです。このことは、実にエネルギーのいることです。大地を自分の足で蹴飛ばさなければならない事なのです。そして、本当の考え方を身に付けようと身もだえするわけなのです。
 今日も、このような気持を反芻させながら、変わり過ぎて悲しみ、幼稚な子供になっていく自分の心を奮い立たせて、決して変わることの無い、普遍的な原理と永遠の真理の観点から考えようと努力するのです。考えの中に悲しみが紛れて感情がコントロールできなければ、真理に立脚している人生とは言えないからです。少なからず、私は、真理に立脚している人物に出会っているのです。そのお方は、悲しみの絶頂の中でも、前進していかれました。まさに武道家なのです。物事に動じないのは、普遍的な真理と付き合っているからなのです。それがどのような内容なのかは、ここでは問題にしないのです。余りにも凄すぎるからなのです。
 この精神力は、優れた武道家しか持ちえないように思われがちですが、私に対する確固たる信念として、自分に適用しているのです。私が物を測る時にメジャーが必要なように、悲しみを乗り越えて生きることについても、絶対的なメジャーが必要なのです。それが無いとどんなに悲しみから防御しようとしても、いつも振りまわされてしまうのです。