2011年12月31日(八段語録1547)

親父の死の回想(3)


 今年を振り返って、色々と世間では事件というものがありましたが、何と言っても大震災を通じての親父の死が、私の心を引き裂いたという気がします。それほどにまで、私の屋根であり、柱になっていたのです。
 長命ケ丘針生・船田病院に四月三日にも、お見舞に病院を訪ねたのです。入院が長くなっている原因が、膀胱に細菌が入って感染しているという事なのです。それでも、もう親父の病状も良くなりつつあるようでした。そこで船田先生に、病状の進展状況の話を聞きに行こうと思ったのでした。病棟に入ると、親父は少し眠そうにしていました。親父の表情は、もう昔の厳しい表情はなくなり、幼子のような純粋な瞳と表情をしているのです。森家を託すような願いを受け取る事ができるのです。
 もう既に、八十四歳になる頃ですから、家督としての引き継ぎをしているかのようです。私は、親父を最後まで世話をするという心構えができているのです。幼い私をあらゆる状況の中、今まで育ててくれた親父です。青春時代の私のわがままも許してくれました。家を飛び出して修行の道へと歩んだ息子の生き方に、何の文句も言わなかったのです。この親父で本当に良かったという実感なのです。だから最後まで世話をするのです。
退院を迎えようとする親父の横顔を眺めると、親父の背中を観て今まで成長してきたのだという事を悟るのです。そしてこの親父で、更に大きな人間として成長したのだという実感なのです。これが、親子に関わる、親の私に対する教育方針であったのだと考えるのですが、今にして思えば遅すぎるのです。しかし、今からと改めるのです。
 しかも、今の私には、親父の真剣さ、意識、能力において、親父に似てきているのです。息子として親から大きな影響を受けてきたという事とは明白なのです。もっと親父から学びたかったと思うのです。そして、今真面目に実践していることの全ては、親父が教育したい事の全てであると感じるのです。
 五月三日を迎えました。父親の誕生日です。八十四歳になりました。また繰り返すように、三月十一日の大震災の時は、三春の杜老人ホームでデーサービスを受けている時に大震災に会いました。水道、電気、ガス全てがストップしました。この時期はとても寒かったので、暖房が止まった状態で、老人ホームも劣悪な環境になっていたのです。誰も責めることもできないのです。
 一日過ぎてから、交通の復旧がなされて家に父親が帰ってきました。その時は、身体が冷えきって肺炎を起こしかねない状態にあったのです。それでも、電池式のストーブを焚きながら看護していましたが、結果的に病院で手当てをしなければならないという結論でした。
 しかし、多くの被災者が病院で手当てを受けていましたので、入院など叶わない状態でした。仕方なしに、特別養護老人ホーム「水泉荘」に送りました。老人ホームの理事長の配慮で、長命ヶ丘の針生・船田クリニックに運よく手配が付いたのでした。病院の入院は一カ月に及びました。病状も回復し、再び老人ホームに入居した時には、歩けない状態でした。ホームのスタッフでリハビリに専念していただき、杖をつきながら歩行できる状態まで回復していました。
 そして、五月三日になって、元気な姿で84歳の誕生日を迎える事ができたのです。震災当時から一連の流れを追って、感じる事は、親父が元気でこの日を迎える事が、奇跡と思えたのです。私の兄弟達家庭も駆けつけて祝ってくれたので、再び明るい一家団欒が戻ってきたのです。当たり前の光景なのですが、幸せを感じるのです。この状態が続けばなんら問題は無かったという悔しさが残るのです。身体が大分弱っていたことに気が付かなかったのです。