2011年12月30日(八段語録1546)

親父の死の回想(2)


今年が終わろうとしているのですが、10月21日親父の死を迎えてから、時間が止まっているのです。こんなに親父の存在が、家族にとって大きいとは、知るすべもなかったのです。震災で体調を崩してからの事が思い出されて仕方がないのです。我家にとっては、初めて出す葬儀でした。当時の事を振り返ることも、毎日のようです。
震災から一日半過ぎて、やっと父親の体調が悪いという事で、長命ケ丘の病院に入院という事になりました。この地震で、暖房が取れず身体が冷えてしまったのです。生命には別状ないようでしたが、高熱で点滴を打ち続けて、なんとか平常温度に戻そうとしていた様子でしたが、肺炎を併発しているという事なのです。今まで、自分である程度歩行杖を使って歩行したりすることができましたが、驚いたことに、「三春の杜」老人ホームから帰って来た時から、歩く事が出来ない状態になっていたのです。
 私は親父の事ばかりに、付き添えなかったのです。親父の事は、妻に任せてしまっていました。空手道場に関しては、インフラ整備もされずに、現状として仙台市民が、避難所生活をしている人も多いという事で、一斉メールで今週一週間について、道場は休みという連絡をしたのです。消防団で災害救助の最前線に立つと、人命救助が優先すべき事であって、日常活動の道場の活動は、次に回すべきであると感じてしまうのです。道場の現場を師範にお願いして、執行部が道場生の安否を把握して、一斉メール、あるいは、繋がらないのですが電話での対応をするという事になりました。
 それにしても、私の意識は、被災者全体に対する意識が強いのです。どんな事があっても、大津波で呑み込まれた人々の、生存を助けたいという気持ちで、望んでいたのです。
しかし、我家に関して振り返るならば、土台はズレ、屋根は雨漏りをするようになり、壁には亀裂が入り、風呂とトイレは、壊れてしまった状態でした。役所の判定では半壊という事なのです。それでも、この地域の惨状を思えば、我家の事に構っていらないというのが正直な気持だったのです。
 それでも、このような状態でしたので、我家にいるよりは、特別養護老人ホーム水泉荘に、ショートステイに予定通り行った方が良いという判断で、体調の悪い父親でしたが、次の日の朝、ワンボックスカーに乗せて、送ったのでした。送って数時間もせずに、やはり体調が悪いと見えて、水泉荘から電話が来て、入院させなければならないという判断をしてもらい、当時は、病院も入院すらできない状態でしたので、運よく長命ヶ丘の病院に入院することができたのです。
 何故か、震災の時に、低温状態で、身体を壊した親父の事が気にかかるのです。もし震災が無ければ、身体を冷やすことは無く、いつも通り元気に過ごしている親父であることを疑わないのです。まだ死亡するような状態ではないのです。いつも家族に元気に振る舞っていました。その後、入退院を三度も繰り返すのです。そして、その結果死に至るのですから、息子としては、やるせない気持ちになってしまいます。