2011年12月29日(八段語録1545)

親父の死の回想(1)


 今回の親父の死に関しては、クヨクヨと悩んでしまうのです。東日本大震災が無ければ、当然、今でも元気で過ごしているのです。震災前は、父親を土曜日の朝に、泉区の水泉荘、特別養護老人ホームに送り届けていたのでした。毎週午前九時には出発して十時前には到着するのです。帰りは、火曜日の夕方私が迎えに行って、自宅に戻るという繰り返しの生活でした。さらに、一日決まって木曜日に「三春も杜」老人ホームへリハビリに迎えに来てもらって通っていました。理由は、杖が無ければ、歩けない状態でしたので、歩行訓練を兼ねて一週間に一度通っていたのでした。
 あんなに元気だった父親が、大震災を境にして、体調を悪くするとは、考えもつかない事でした。悪い予感が的中してしまったのです。「三春の森」老人ホームでデーサービスを受けていた時に大地震が起こったのです。3月11日午後二時四十六分、大地震発生です。揺れは、五分以上も続きました。私は、車の側にいたので、車を止めて、広い空地へと向かいました。近くのビルの窓ガラスは、粉々に飛び散っていました。すぐに宮城野消防署に向かいました。消防団に所属していたので、我家の事よりも、地域の事を優先したのです。数十分後大津波は、太平洋から瞬く間に駆け上がり、黒く瓦礫を呑みこんで、上陸してきました。署では、上空を飛んでいるヘリコプターから映像がモニターに映し出されていました。
 大変なことが起きていることが一目瞭然でした。閖上地区から岡田地区に至るまでの田園は、大津波で呑みこまれていくのです。電気、ガス、暖房、電話すべてのインフラがストップしていました。母親は太白区長町で行方不明でした。親父は「三春の森」老人ホームに、電気も暖房もない中で夜中過ごすことになったのです。理由は、高砂にあった施設であったため、国道四十五号線が大津波のため大渋滞でした。車を海に向かって運転するなど無謀だったのです。多賀城近くまで津波は押し寄せ、多くの車と人々を呑みこんでいたのです。
 次の日、親父が「三春の森」老人ホームの車で送られてきたのですが、高熱の状態でした。我家も暖房もないので、病院に送ろうとしたのですが、いつも行っている宮城野病院は地震で壊れていました。さらに近くの病院は、津波で負傷した人を含め、病人でごった返していました。我家ではどうしようもない事もあったことと、病院に入院もできないこともあって、一日寒い中我家に一日滞在し、特別養護老人ホーム「水泉荘」へスケジュールとして土曜日行けることになっていたので、とりあえず、安全を期して、送っていったのでした。
 一夜を南長町小学校の体育館で、過ごした母親が長町からタクシーで帰ってきたので、母に関しては安心しました。それでも、父は、十三日に「水泉荘」にお世話になったのですが、やはり高熱が収まらず、運よく長命ヶ丘の船田病院に入院することになったのです。肺炎を併発しているという事だったのでした。