2011年12月27日(八段語録1543)

積極的人生観(116)
 大震災で取った行動

 一年を走り抜いてきて、私の故郷、宮城県仙台は被災地であるという事を忘れていました。自分たちが被災で最も多くの犠牲を払ってきたという事も、思い出すまいと歩んだ期間でした。理由は、恐ろしい思いに、巻き込まれないためという事もあったのだと思うのです。というのは、この東日本大震災が起こって私が、クヨクヨ心配することを、最大に懸念したのです。大震災が私の心に宿ってしまって、その通りに大震災に浸ってしまう事を嫌ったのです。
 震災当時、私の心に消防団で、荒廃した現場をいち早く目にしたのです。恐怖という気持ちは、拭い去ることは出来なかったのです。家屋が全壊し、流され、死体がゴミのように、津波で淀んだところに集積しているのです。それも、瓦礫で全身を切られたような姿でしたから、無残という言葉もありませんでした。不安や心配は現実に起きてもいない事の為にクヨクヨ考えることが通例ですが、今回の震災の場合、まさに目の前の現実だったのです。消防団の活動は、まさに奉仕と献身ではありましたが、生命力を消耗させる何ものでもなかったのです。
 当時、一か月近い消防団活動は、恐怖感までは行かなくても、不安と心配というもののタネは付きまといました。人によっては、発狂した人もいるのです。警察官や自衛隊の方で公務を下りた方もいました。街で奇行を行った人もいたのです。根拠は震災の悲惨さでした。震災当時の消防団の仲間とは、お互いの心が分かったのです。実に悪い事柄をお互いキャッチしていましたので、活動する中でもあまり話さないようにした覚えがあります。お互いの微妙な心理変化はお互い鋭く察知していたのです。それでも、消防団の活動は止めようとはしなかったのです。
 消防団のメンバーは、個人的な事情を言うならば、家で家族を擁護した方が得策であり、当たり前の人間心理なのです。私も親父を三春の森老人ホームに預けて、その日凍える寒さの中で一日中過ごしたのです。交通事情がままならなかったので、二日に及んだのでした。それで、肺炎を併発して、入院するという状況に至ったのでしたが、その全ては、妻に任せて、消防活動を毎日行っていました。私のような事情を抱えている人もいっぱいいましたが、公務優先でした。千年に一度の大震災に相応しい状況であったからなのです。消防団の全員が、大津波で被害を被っても、必ずや生存者はいるという確信の下に、蒲生や岡田地区を丹念に回りました。
 時間との闘いでした。七十二時間を過ぎるまでは、瓦礫の下に、もしかしたら生存者がいるという確信して捜し歩きました。泥にまみれて、ぬかるんだところを歩き続けたのでした。四日間は生存者を助けるという信念のもとの歩みであったのです。活動は三週間にも及びましたが、全国の援助隊が大勢駆けつけてきてくれたこともあって、四月には休憩を取ることができました。そのような事を今日は書いているのですが、それまでは思い出すことも忘れていました。前進するためなのです。そして、四月以降、最大の危機に出会ったことを忘れて、全国を行脚して、グループの確立を望んだのでした。悲惨な事に見向きもせずに、グループの発展の為に寄与しようとしたのでした。今だから書ける利他主義的人生観なのです。