2011年12月24日(八段語録1540)

積極的人生観(113)
 クリスマスイブ

 土曜の朝です。毎年の事ではないのですが、クリスマスイブなのです。全世界の人達がキリストの誕生を祝う前夜という事になります。息子夫婦はデズニーランドに出かけてしまいました。今日は、ユダヤのベツレヘムで生まれたイエスキリストが、全世界に愛の教えを広めた日に匹敵するような生誕祭なのです。その精神が今の全世界を左右しているというのですから、驚くべきことです。たった一人の人が世界を変えたのです。
 わずか、三十三歳の生涯を終えた人であり、最後は十字架にかけられて亡くなった人なのです。その事なのに、不思議に成功した人であり、成功に満ちた生き方をしたという事になっているのです。実際、その内容を新約聖書から読み取るに、勢いよく世に出て、多く人に訴えたにもかかわらず、最後は、弟子からも裏切られて、亡くなっていった方なのです。まさに失敗の人生に思えるのです。しかし、イエスキリストは、その自分の姿を愛の人として顕現したというのです。つまり、失敗や不安を愛と許しに置き換えた人という事なのです。
 新約聖書を読むと、どのような境地に立ったとしても、イエスキリストの精神は愛と許しに満たされた状態にあったのでした。このようにイエスキリストに見る人間像を追求するまでもなく、真実の人間とは、どんな環境でも、決して変わることの無い普遍的な原理と永遠の真理と愛の観点から生きた人という事になるのです。当然、イエスキリストは、裏切られ、最後は殺されるわけですから、彼の考えの中に恐れや不安や心配はあったと思うのですが、その事には一切触れずに最後まで生涯を貫いた人だったのです。
 イエスキリストが物事に動じないのは、普遍的真理や原理そして愛と付き合っているからなのです。それがどのような内容であるかは、私が測り知るところではないのです。イエスキリストが神の領域にいる人かもしれませんが、自分に対して確固たる信念で生きたと、私には思えるのです。私達が生活する時に、計ることができる、メジャーが必要であるように思うのですが、実にイエスキリストは、私の手本とでもなり得る人なのです。このような人が過去に生きて、手本を示してくれたのでした。その事ゆえに、今の私の生き方の防衛もしっかりできるのではないかと思うのです。何故ならば、いつも不安や心配が絶えないからなのです。その課題を克服して最後まで貫いた人物にイエスキリストは思えるのです。
 また、イエスキリストの姿を穏やかに聖画に描かれています。いつも怒りに震え、悲しみに打ちひしがれ、嫉妬に狂うような自分の心の問題も、イエスキリストの聖画を見ると心が落ち着いて安らいでしまいます。問題の解決をイエスキリストの姿に投影することもできるのではないかと思うのです。私の心が動転しているとき、まともな考えが浮かんで、来ないのですが、決断や判断をキリストのような人格から穏やかな心を得て行う事が出来るのではないかと思うのです。
 今日は、子供達の為に、プレゼントを準備しているのです。ヨドバシカメラに行って、アイホーンを購入し、ロジクールのスピーカーを購入し、最後は床暖のカーペットを購入しました。急いで家に直行して娘たちにあげたのです。感謝してもらいました。息子にはというと、妻と洋服が良いのではないかという事になって、後日という事になりました。