2011年12月6日(八段語録1522)

積極的人生観(95)
 ハワイ五日目 徹夜で母と話す

 母の生き様をホテルで真剣に聞き入りました。お互いに過去を振り返ったのです。このような親子の会話ができるとは夢にも思わなかったのです。私の社会貢献を人生観としてきたこともしっかり話しました。母は、納得しているようでしたが、母なりに、最後に家を潰すことのないようにしなさいというキツイ言葉でした。
 人は誰でも選択能力が備わっているものです。健康、幸福、平安、正しい行為を選ぶことができるのです。反対のあらゆるものを選ぶことができるという事を、母から感じさせられます。母の感情は、良きときには前者を選択し、荒れているときはその反対を選択しているのです。荒れているときは、母は独立した一個の世界の支配者であり主人公になっているのです。このことで、私は、息子として、精神的に苦労を重ねたことは言うまでもないのです。私はただ従って、眺めているだけでした。金銭について多かったのです。
 さて、話し合って感じるのですが、母について、一生懸命生きてきたことを感じさせられます。貧困を嫌い克服してきた人なのです。その貧困を嫌う姿が病的に映ることも、小さい時にあったのです。貧困と欠乏が心を悩ませ、その克服に最大努力したのでした。そのよう事から、家庭を犠牲にしているようにも見えたのです。学校の休みの時には、実家の金森に疎開させられました。戦争でもないのに、我が家を出て母の実家の金森で生活したのでした。母は人生で、しっかりとした家庭を築くには貧困であってはならないという強い決意があったのでした。
 母においては、人生を良くし、すべて手に入れる最初の入口が貧困の突破だったのでした。もっとも欲張りな人生に着手したことになるのです。もちろん、私には理解することはできなかったことでした。裸一貫から親父と出発した家庭でありましたから、なおさら貧困を美徳とすることなどできなかったのです。母は、親父を衣料品店の個人経営者から、太平住宅の会社員に仕立て上げたのでした。貧困は病気であると思うようでした。確かに、私の心には、貧困は恥ではないにせよ、不便なものであることを母から教えられたのでした。「ボロは着ていても心は錦・・・」という水前寺清子の歌は、我が家には通用しませんでした。
 ところで、この姿勢に真っ向から反対したのが、青春果敢な時の私であったのです。時は十六歳でした。この宇宙に私達の所有しているものは何一つないではないかと反論していたのでした。心で思ったならば、全てを所有することができるという意識が芽生えていたのでした。心で思えば、貧しい気持ちは無くなるはずだという確信を持ってしまったのです。実際、家出をして寝袋一つで、全国を回りました。ひもじい思いをしたことも、在りましたが、耳パンをパン工場で米袋に一つ貰い、何週間も生活できました。耳パンを焼いたり、蒸したり、時には天ぷらにしたり、結構楽しい生活ができたのです。私の潜在意識の中でお金の悪口を言っていたのかもしれないのです。今裕福でなくても、耳パンを食べてでも裕福である如く振る舞う事から出発した青春でした。
 ハワイのホテルで、今までの人生を振り返って、母の生き方と、私の生き方を話し合ったのでした。母の気持ちが身に染みて理解できたし、私の極真会館やボランティアを通じての社会貢献の為に生きる生き方も理解してもらいました。腹を割って話したことになりました。結局は、お前の為に、両親の人生があったのだという事でした。こんな立派な息子が出来て幸せ者だという事をしきりに話してくれました。徹夜して話したのです。息子を信頼してくれる様子でした。