2015年12月30日(八段語録2642)
まだまだ不足です
今年を振り返ると、まだまだ悔しい事が多すぎます。やるべき事の半分もできていないという事です。そのように思うと、「安穏としたのかな」と反省するのです。こんな根性なしの根っこに、自分が意地を張って座って、そこで寝て食べて暮らしたのだと思うと、残念な気持ちにもなってしまいます。まだまだ不十分なのです。男の姿として、どんな困難も平気で越えていき、家族と道場生を抱えていかなければならないのに、まだまだ不十分という事です。歳をとっても、限りない情熱を持って歩んできたとは思うのですが、思いのみが先走って、結果が伴っていないという事です。
よくよく、一年を振り返って考えてみれば、雨が降って、軒先から落ちる水滴が岩に穴をあけるようにもなっているのに、穴もあけられず悶々とする日々が続いたようにも思うのです。反省が多いのです。雨だれの勢いがなかったのだろうか。流れる水滴に汚染物質がありすぎたのかと、考えてしまいます。憤りを耐えたこともありました。息が詰まり、この五感が狂おしくなった時もありました。まだまだ、理想に到達していない事が多いという事です。
そのような事を思い浮かべると、故郷に帰っても、やるべきことができず、困難な事が多すぎるのです。同じように今年、歩いてきて、どのようになったかという事を振り返ると、闘えない気持ちや、次の日に向けての不安の環境から、抜け出すことができないような、小心な自分でもあるようです。混沌と混乱に絶えず遭遇するたびに、自分で解決しなければならないという事です。顔を洗って、ひげをそって、勢いよく出発するのですが、夕方には消耗してしまって、休んでしまう事もありました。
トレーニングも途中で、気持ちが乗らずに、中途半端に終わった時もあったのでした。日々開拓の道ですから、常に栄光だけを感じることができないという事は百も承知しているのですが、敗北の多い人生にいら立つことも多かったのでした。道場生から見れば、指導者であり師範なのですが、私自身から見るならば、苦悶と葛藤の日々休まらない日々を過ごしている、愚かな修行者という事なのです。駅伝のレースのようです。タスキが渡らなければ、そこで終わってしまいます。そのような限界の日々を送っているようで、心はまだまだ落ち着かないのです。
ところで、そのように自分を、追い込んでいく理由を考えるのですが、一つに、自分よりも劣るような道場生を育てるという事は、望まないからなのです。私という存在を超えていく人材を望んでいるのです。もし、自分より劣る道場生を望むとするならば、私の組織は、独裁者が支配するような組織になるという事です。それでは、自分が道場生にたいして、家族として対応した奉仕や、犠牲は何の役にも立たなかったという結果になります。それで、私が転べばおしまいという気持ちが強いという事です。それだけに、自分の良心は、「まだまだである」という気持ちを抱かせるのだと思うのです。その叱咤激励に、答えるように整理しようとするのでした。そして、できなかったことの反省を、しっかりしたいという気持ちになるのでした。そんなことを考えながら、議員の先生とお話していたのでした。