2015年12月24日(八段語録2636)
自分の人生に誇りを持つ
クリスマスイブです。ふと振り返るのですが、どれだけの社会的信頼を受けるようになったのであろうかという事です。それは、目に見えるものではないのですが、故郷に帰ってきて、もうすでに、二十五年の歳月を送ってきたのです。私の血統的な先祖となりますと、親父もお袋も、武士の系図という事ですから、江戸時代までは、帯刀を許されていたという事でしょう。私の歴史的な距離は、長く感じますが、結実として考えれば、先祖の願いを受けて、今生きているという事を気持ちで感じれば、先祖との距離は無いようにも思うのです。
母の本家の従弟は、特別養護老人ホームの大きなビル三か所を運営し、そのほかに、保育園を七つ、擁護施設まで経営しているのです。大したものです。母の実家の叔父は、仙台市市会議員を長年務めていました。その信頼の土台の上に、幸生会という財団の理事長として、従弟は勤め上げているのです。このような今の時代では最先端の、社会福祉に本家が関わって、もうすでに三十年以上の年月を投入している訳です。その姿勢は、見上げたものであるという気持ちになります。私よりも従弟の年齢は、六歳も若いのですが、地域に密着して活躍しているのです。
私の場合、何故かしら極真空手という手段を通じて、青少年の健全育成を買って出たわけです。二十年に及ぶ修行時代をひっさげて、かつて鍛えた心身を武器にして、故郷で闘い始めたのが、四十歳を超えたころからという事でした。そこで、昔取った杵柄を最大活用して、師範として立ち上がったわけです。本家の従弟との比較でも、社会貢献をしているという業績を上げたいという気持ちになります。もちろん、その貢献を人材教育に限定はしていますが、責任を果たさなければならないという、自分の事情をしっかり捉えてきたという事です。そのように思うと、本家と肩を並べても、社会に役立ちたいという心の発露があるのです。
ところで、故郷に帰ってきたときは、誰からも歓迎されないような状況であったと思うのです。本家の従弟を頼れば、それなりに生活も楽だったかもしれません。直系の従弟に甘えるという道もありましたが、私の分野での貢献が願われていると思って、黙々と歩み続けてきたことを思い出します。そのような意味では、世間に揉まれながら、何ができるのかを模索した日々であったように思うのです。結局は、自分が培ってきた極真空手を生かすという選択しかなかったのです。私が何をしたかというならば、親父と二人三脚で、私が培ってきた極真空手で、人材教育に着手したという事なのです。両親は、空手は片手のようだから、両手で運勢を掴むようにアドバイスしてくれたのでした。そのような意味では、親父の協力と修行時代の積み上げが今の基盤を作っているという事であると思うのでした。結構苦労を重ねました。「死なんとすれば生き、生きんとすれば死なん」というところだったのでした。
今日も良く晴れた一日でした。とにかく一歩でも前進です。少しずつ道を開くという事と、必ず、前進するならば、障害が立ちはばかるという事です。試練はつきものです。そのような思いを抱きながら、正面突破という事です。自分のミッションは青少年教育であり、空手はその手段という意識が強いのです。社会貢献として闘う人生という意識ですから、やはり本音として、本家の従弟には負けたくないという事を心の片隅で思うのでした。