2015年12月23日(八段語録2635)
私自身の位置づけ

色々な事を思い浮かべるのですが、理不尽な事に関しては、許すことができないような性格のようです。確かに社会において世話になっているということになるのですが、あくまでも、私が生きていくための土台が社会であり、その土台がしっかりしないで「ぐらぐら」するようでは 、こちらまで影響を受けてしまいます 。
原則論としては、私が生まれる前から社会はあってし、これからも続いていくということですから、信頼のある社会であるべきであるというのが、私の主張になるわけなのです。今までこの環境で伝統的なものを受け継いできているのです。それ故、私が生活するための風潮と伝統を学ぶのも、この社会ということです。私もかつては幼年期少年期と学童として学び、社会に飛び立つまで多くのことを、学生として指導を受けてきたのです。
もちろん社会はとんでもない悪魔が待ち構えていることも、しっかり学習させられたのです。それでも自分が理不尽なことに出会うと、居ても立っても居られないということになるということです。
そのような事を考えながら、次の一手を社会に対して、打とうとするのです。人の心の覚醒を目指そうとするのが、「極真」であると思っているのです。この時代に武道を提案して、青少年の心を開墾しようとするのです。もちろん空手だけでは、根本が明確であるとは思っていません。私見ですが、技術だけを指導をするようは、一時的な事として風呂敷をまとめて何もせずに戻ってこざるをえなくなるのです。あくまでも青少年に未来を示すものでなくてはならず、二十一世紀の未来を照らす青年の創造でなければならないということです。
そのためにも、武道教育の第一線でなければならないという事だと思っています。「たかが空手」と言って、躊躇し、ためらえば、大変になるという自覚を持たなければならないという事です。この武道教育は、重要であると思っているのです。世界を一度見渡してください。ISの問題、中国との緊張感、ロシアのクリミア問題、様々な事が頻繁に起こっています。このような危機の解決をしていくような未来を導く青少年の育成が急務であると思うのです。かといって戦争に繰り出すようではどうしようも無い事も承知するのです。あくまでも家族という理念を世界共通の価値観として極真空手という手段を持って啓蒙するという事です。その役割を担って、私は歩んできたし、弟子たちに継承したいというのが師範としての意気込みという事なのです。
極真空手を通じて、何を覚醒させたいかというならば、それは日本の武士道における家族のあり方なのかもしれません。その位置が、「私」を探す位置があり、愛と生命と子孫が残る道に立っているという事かもしれないのです。個人が何かを行うとき、家族が垣根になってくれるのです。家族ゆえに愛情の対象になりうるという事です。