2015年12月20日(八段語録2632)
休日でも稽古での闘いは続く
日曜日、良く晴れています。体調もかなり戻ってきました。体調がいいという事は、しっかり稽古ができるという事です。午前中から稽古です。極真空手ですから、最前線の第一線に出なければ、その醍醐味を感じることは出来ないのです。もちろん、躊躇し、ためらうように思うものです。それでも怠惰な気持ちを抜け出して、肉体の鍛錬に励むのです。今の世界を見渡すと、イスラム国の台頭で、テロが勃発、中国の南沙諸島の埋めたて、ロシアのクリミア半島の占領、様々な国際不安の要因が割拠しています。理想の世界とは程遠いという事でしょう。どちらかというと、人類は悲惨であり、いまだに解決すべき多くの課題があるという事です。私の気持ちとしては、そんなに大きな事は言わないまでも、一人一人が価値ある人間として確立するという事です。その為に心身を磨く極真空手でありたいと思うのです。そこで、個人として完全な「私」の位置を探さなければならないのです。鍛えるだけで乱暴者になっては仕方がありません。道場で稽古をすることは、心身を鍛える事であり、自分を探し出すことなのです。そして、自分の立場を自覚するところでもあります。
考えてみてください。誰からも尊敬される「私」は、自分を律して行くことが出来ることなのです。そうでなければ、良い人と言われることがあるでしょうか。稽古をしてこそ、自信を持つことが出来るのです。それは、自分の立場をわきまえ、社会に調和していく能力を遺憾なく発揮することが出来るという事です。この社会に調和するための、心身統一という事が稽古の中で、自ずと芽生えてくるのです。私の場合も、法務大臣から委嘱を受けている保護司なのです。決して犯罪に陥ってはならないのです。交通違反でさえできない立場という事です。ですから、どんなことがあっても、社会に対して見本にならなければならないという自覚をするのです。このような姿勢は、稽古を通じて培ってくることができたのであり、この見えない社会秩序を保護司として、十五年の間続けてきたということです。もっと続けていかなければならないのも、私の立場なのです。
そのような事を考えれば、心身を武装化していくという事が、必要条件になるのです。なぜならば、自己からの発想は、必ずと言っていいくらい社会の秩序と違ってくるのです。そのような意味では、社会を大切にしたうえで、自分を調和させるという作業が必要になってくるのです。心身統一の土台の上に、親子関係、兄弟関係、地域社会との関係と広がっていくものであると思っているのです。どのようにして、そのような、立場に立つかというならば、稽古しかないという結論を、私は導いているのです。そこには自分自身の利益や事情を考えている暇はないのです。
そのような意味で、道場生は、稽古に完全投入という事です。まず地位や名誉や財産を求める前に、そのような外的なものに振り回されることが無いように、心身が統一された、社会に役立つ人間を目指すべきであるという事です。汗と涙を流さなければ、どうして自分の位置を知ることが出来るでしょうか。そんな事を考えながら、太陽に対して恥ずかしくない、海を見てもやましくない、自然に対しても一点の曇りが無い、何も隠すことが無いような自分になろうとする闘いが始まっているのです。