2015年12月19日(八段語録2631)
自然の輝き以上の道場生

 今日は目が回るような忙しい一日でした。朝、目を覚まして起きれば、光が輝いているのです。晴れ渡る青空に、勢いよく私の本性との絆を結び付けさせて、新しい理想と感情が芽生えてきます。年末に道場生に話すべき内容を整理して、道場生を正しく導こうとする気持ちが強いようです。そんな我家の梅田川の川辺に一株の草、一本の木をみると、決して人が造作することが出来ないものであると思うのです。ましてや今日の私は、いつになく、元気はつらつとして、太陽の光のように、誰とも比較することが出来ないくらい、輝いているという事です。川縁を散歩で歩くのですが、どんな骨董品とも比べることが出来ないくらいの自然に満たされているという事です。「どんな貴婦人が着ている豪華な服と比べることが出来るだろうか」と思う程でした。こんな豪華な自然が、市内の真っただ中の目の前にあるという事を、感じることが出来なければ、心が貧しいとしか言いようがないと思うのでした。そのような思いがする一日という事は、自然に祝福されているというとであると思うのでした。
 さて、道場生の心を馳せれば、愛する道場生は可愛いものです。自然の輝きがこれほど、素晴らしいのですから、最も愛すべき道場生は、どんな可能性を持っているのであろうかと計り知れない可能性を見出すのでした。その意識と心情は、私の動機として、最大の期待をしているのが、心臓の鼓動で感じることが出来るのです。一株の草を見て、何かきらりと光る思いをするのですから、道場生に対してはなおさらなのです。そよ風が吹くのでさえ、何かを感じるのです。自然にさえ、心が健やかに清々しく感じるのですから、道場生に対しては、さらに愛おしく感じるのです。道場が貧しいながら、王宮のように感じられるのも、独りよがりかも知れません。ひょっとすると、こうして育っていく道場生の中で、世界のリーダーになっていくような人材が含まれていかも知れないと思うと、尊く思うようにもなってしまいます。自分の道場生の中で、自分の家の宝物より、どんな博物館の宝石よりも尊い、そしてダイヤモンドの輝きをはるかに超える道場生が、今稽古をしていると思うと感動してしまうのです。
 ところで、今日は、錦が丘、幸町、成田、戻って幸町の教室を回ったのでした。審査会を終えた道場生が待ちに待った、昇級の帯を師範の私から受け取るためという事です。受け取った後に、心構えを話すのですが、それが三十分にも及ぶのです。もちろん、道場生は正座をして聞くのです。今年最後の修行が正座での私の説教という事になります。もう上級者にもなると微動だにせず、顔を凛々しく、極真魂そのものの顔つきになって来ています。話す内容を心で受け止めているのです。私は、最大の心のプレゼントを振舞っているという自覚です。そんな心を受け止めてくれる道場生でした。自分勝手ですが、道場生は、生きる傑作品なのです。そしてこの道場から巣立っていくとするならば、頼もしいばかりなのです。そんな気持ちを抱きながら、夜の八時までしっかり回ってきました。
 今日は、そのような意味で、朝日に輝く自然を。愛でながら、道場生に精一杯の愛情を投入した一日でした。そして、一日が愛情を基礎とした、充実した一日という事です。三十分の説教を四か所で、意欲的に説教し続けました。気持ちは、「少年よ、大志を抱け」と話したクラーク博士のようでした。