2015年12月16日(八段語録2628)
現世に生きて
自分の目的は、身体を纏ってあらゆることを、感じようとすることなのでしょう。もちろん、愛情でもって、理想を夢見る事でもあると思うのです。人間として、この時代に登場したのが不思議ですが、いまだに生きているのです。それも有難い事に妻の千順さんという極と、男としての私という極が、磁石のようになって寄り添っている訳です。そして、その極どうしが、調和しているのです。そして、この地上で回っているのです。上に行ったり下に行ったり、右に行ったり左に行ったり、前後・左右、内外共かけずり回っているのです。それで二人が、信頼関係で家庭を営んでいるのです。いまだに、この肉体をまとって、あらゆることを感じているのです。この極と極の夫婦の関係で、一人では感じることができない事を、夫婦だと、自分では感じることができない事でも、間接的に理解することができるのです。感性の範囲が広がっていくのです。それもこれも、まだ肉体を持って生きているからだという事なのです。
さて、この肉体を持って、心身が健全であるならば、妻とパートナーとなって、連結しあいながら、安定したのであるし、恵まれて息子・娘も誕生させることができたのです。そして世間との関係も、違和感なく結んでいくことができているのです。まして、今となっては、父母になっているのです。今年の八月に息子の子供が生まれましたので、お爺ちゃん・お婆ちゃんの二人になっているという事です。このような人生を過ごせているのも、この肉体が健全であるという事なのです。それも、愛情をベースとして生きてきたことで、充実感もあるのです。これが、愛情がなく、複雑な問題が生じていたならば、それこそ地獄の真っただ中に住んでいるようなのでしょう。お互い、物質的に裕福に暮らしているとは言えないまでも、お互い一緒にいて不自由しない時間を過ごしているのですから、幸せという事なのかもしれません。
ところで、いつの時代もそうですが、男女は分かち合うようになっているのです。東西南北、平面に高さが増し加わって、無限な面になっているのです。これらの三次元の立体の世界で、喜怒哀楽はもちろんのこと、子女を生むこともできましたし、育てることもできました。この地球が生活の舞台になったという事は、幸せな事なのだと思うのです。本日のように、何度も十二月は来ます。冬の訪れという事でしょう。夫婦にとって、去年の冬と今年の冬は全く違うのです。季節は同じでも感じる感性は新しく展開するのです。人生の深みを夫婦共に感じてしまいます。今年の大きな違いは、妻も私も士紀雅を抱っこしたりして、嬉しがっているのです。毎年の季節を楽しむ理由は様々あるのです。そして毎年違うのです。そして、自分のため、妻のため、息子夫婦のため、娘たちのため、孫のため、何ができるかという事を自問自答している昨今なのです。
日が短くなって、五時過ぎるともう真っ暗なという事です。もう一つ、道場生の為にという事がありました。多くの人材が巣立っていって欲しいという気持ちで、種を蒔き、芽を出させて、成長させ、花を咲かせようとするのですから、手間がかかります。それでも、極真の伝統がありますから、それに沿って、愛情を持って育てようとするのです。