2015年12月13日(八段語録2625)
例え肉体が疲れていたとしても

 師走の日曜日、オーバーヒートして、風邪をひいてしまったようです。理由は無理してしまったことです。目指すべき目標が高い為に、頑張りすぎたり、躊躇する自分があります。その背景には着実にという事で、「石橋を叩いて渡らない」というような慎重さがあったり、勝負しようとしたりするからだと思うのです。本当に矛盾だらけです。それも責任を背負っているからという事だからです。まさに、道場生の成長に責任を持っているという事です。今週は、昇級した道場生一人一人に帯を渡します。百人近い人が昇級するのです。その責任を負っているという事です。大会で優勝すれば、道場生に対して責任を果たしたという事ではなく、一人の人格者として、立派になってもらう事が責任なのです。そんな気持ちでいるので、心が休まる時間もないのです。もちろん、愛情を投入しますから、和気あいあいとした愛情の世界を築くことが、私の役割であり、道場で稽古をして良かったという喜びを味わってもらおうと、心を込めるのも役割なのです。
 それでも、今日の私は、喉は腫れているし、腰は痛いし、肉体が言う事を聞かないのです。まったく集中力ゼロというところです。それでも道場生に愛情を注いでいるという事を自ら証明すべく、身体を動かしているのですが、年齢が重荷になっているようです。道場生の成長を喜ぶという事は、誰よりも、私の気持ちから出発しなければならないと思っているのです。その目的がどこで成し遂げられるというならば、道場生の成長の姿によって顕現するのです。そのような気持ちを持って、道場生が横に広がって、各道場で稽古するならば、その場に磁石のように、多くの人が集まるというものです。私が極真空手を継続している意義を見出す理由です。今まで道場を運営してみて、道場生が巣立っていくという姿が、目に焼き付いて仕方がないのです。科学が発達して、社会環境が良くなったからと言って、このような喜びを感じることができるかというならば、否と言わざるを得ないのです。それほど、価値ある歩みをしているという事です。
 それだから、肉体の十字架を背負っても、前進しようとするのです。私の気持ちは、極真空手から離れることができないのです。理由は、その味わいを知ったからという事でしょう。最初は取っ付きにくくとも、その味を味わったので、この極真から離れることができないのです。ちょうど、蜂が蜜を吸うように、甘い味を知ったら、動き回っているのに似ているのです。途中で戻っても、また行こうとするのです。私が、寝ても覚めても、道場生を思う心は、このような蜜のような味が、道場にはあるからなのです。だからと言って、道場生を思い通りに動かそうと思わないのです。そんなことをしたら犯罪にも陥ってしまうのです。あくまでも、家族として捉えるならば、大切に見守るしかないのです。今も、道場生に対して、愛情を注ぐことにいとまもないのです。
 朝起きて、その願う心は何かと自分で問うならば、朝食をとることが問題ではなく、道場に出かける事でもなく、多くの人に気遣う事でもなく、愛情を持って、昼も夜も春夏秋冬変わることなく、一生の間、道場生を思う心であるように思うのです。それだけに、道場では、上から投入したり、下から投入したり、様々な応対をしながら道場生を刺激しているのです。そんな一日を過ごすことが、最高の幸せであると思うのでした。