2015年12月12日(八段語録2624)
コミュニケーションを持って投入して消耗すれば結果が生まれる
極真会館宮城県本部の闘いは、数的基盤だけを目的にしている訳ではないのです。あくまでも極真の理想の同化を願っているのです。極真だからと言って、力でねじ伏せようとは思わないのです。あくまでも稽古で一緒に汗を流すのです。そして、極真の何であるかを知って貰って、お互いが関係を強化して、互いに対話をするのです。そこで初めて、理想としての発展があると思っているのです。政治・経済すべての分野において、力を持つことが勢力分野になっているようですが、そのレベルで闘うより、関係性、コミュニケーションを大切にする極真会館宮城県本部でありたいと思っているのです。それは、電気と同じです。先に力があるのではなく、プラスとマイナスの関係性を持って電気が生じるのです。そのような意味では、初めに目的があってというのではなく、あくまでも道場内における先輩・後輩、先生・生徒という内部での円滑な関係が必要であると思っているのです。そのような意味では、目標が先ではなく、人間関係の円滑な循環を目指そうとするのが極真会館宮城県本部という事なのです。
ですから、私達の最小単位は家族なのです。愛情と生命が同居している所だからなのです。生命の発源地であり、動機がここから生まれるのです。そうすると、刺激も喜びもここにあるという発想になるのです。家庭を築き上げることが目的という事であって、極真空手はその為の手段にしかならないという事なのです。自分本位で、何か創造するとか、力を出すという事は限界があります。全てを投入するという事でのみ、傑作品が生まれるのであって、これ以上出来ないという時に、初めていいものが生まれるのです。全てを投入することができる基地こそ家庭であると思っているのです。生命と愛情を投入できる大元を、家庭に置かずして何があるというのでしょうか。
ところで、稽古をすると、限りなくお腹が空きます。そして疲れます。消耗すること限りなしというところです。稽古は損をする場所かというならば、必ずプラスとなりうる何かを得るのです。「この時まで投入すれば、ある時から返って来る」というものが、稽古にはあるのです。何かをしようという望みを持って努力し、その限界点を乗り越えていくと、必ず願った結果が生まれるのです。これが宇宙の法則のような気がします。私も稽古を継続してきて、過ぎてみれば、四十年も経過しているのです。稽古に明け暮れた時が多くありました。限界が分かっていて、それを越えて、身体を壊して入院してしまった時もありました。入院したからと言って、無くなるわけではないのです。稽古の完成まで目指すのです。そうした時に、喜びは桁違いに生まれてくるのです。そうして生まれた、業績はもう消すことができないのです。そして、今の自分に満足しているのであります。そしてこれからも発展しようとしているのです。ですから、困難や苦痛は嫌ではないのです。
そのような意味では、この困難な道へ自分を追いやるための基地が、家庭であったという事です。自由で平和で幸福な所が、家庭であるという事です。家庭を足場にして世界を回ってきました。それは多くの極真空手を愛する道場生との出会いであったし、素晴らしい関係を持つことができたのでした。