2015年12月11日(八段語録2623)
一目瞭然

 はっきり言うのですが、「極真」を鵜呑みにしてはいけないという事です。多くの矛盾があり、疑問があり、問題もあるのです。どうやって歩むかというならば、一人一人が、克服していくという事なのです。その克服に醍醐味を感じずして何が「極真」であるかという事です。問題を暴露して、それに取り組むという事は、当たり前のことなのです。この「極真」を歩もうとすると、必ずと言っていいほど、ハードルが高くなって、苦しくなるのです。そして、楽な方向に流れるし、あらゆる妨害を押し寄せてくるのです。最大の妨害は、自分の心という事です。自分が信じられないからという事が一番大きいのです。そしてその理由を一方からだけでなく、多方面から正当化する材料に満ちてきます。そして、なぜ「極真」をやめたかというと、理由が見つからないくらいなのです。そして、時々、極真経験者という人が道場を訪れてきます。その表情には、不思議に続けておけば良かったのにという言葉と表情を残していくのです。
 さて、私の場合、どのようにして「極真」を歩み続けたかという事です。そして、よくも耐え忍んできたのかという事になります。生傷が絶えず、全身打撲状態であるにも関わらず続けることができたかという事です。病気にもならず、この四十数年続けてきました。正に半世紀に及ぶ健闘ぶりです。こんな生傷を絶やさずに、日々怪我だらけで、良くも病気にならずに修行し続けたと自分ながら感心してしまいます。自分が歩んだ道が、いつ崩れるかわからないのに、しがみついてきたのでした。自分の判断によって今まで来たのであるから、本来的に、どうだったのかと考えてもいいはずなのですが、ケロッとしているのです。度胸がいいのだと思うのです。そう考えると、人生超越してきたのであろうと思ってしまいます。
 ところで、色々考えて、「極真」で人生を歩み続けているという事は、自分勝手に生きてきたという事ではないという事です。また「極真」という看板を尊重するために歩んできたという訳でもないのです。矛盾だらけの表現ですが、自分の意志で、あらゆる問題を乗り越えて今まで来ているという事です。そして、今も多くの課題を抱えながら全うしようとしているのです。それは、人間だからなのです。人間だけに自分で考えて、自分の人生として歩んでいるという事なのです。「極真」が万能のはずはありません。確かにこの世も不当な仕打ちが多いのです。納得しない事は、甚だしくありすぎます。いちいち疑問を呈すれば、狂ってしまいます。どうして、この道を歩み続けるかというならば、この稽古を続けていることによって、創造性が具体的に表れるという事であり、ビジョンが生まれてくるのです。そして、その事を実際に行っていく忍耐力と信念が兼ね備わってきているのです。今も多くの夢を抱いているのです。そしてそれは、実現可能であるし、実行に移しているのです。
 今日は、いつも農作業を手伝って貰っている、土田家の家族が我家に来てくれました。鍋を囲みながら、土田家の孫と森家の孫の対面でした。お互い三代が続いてきているという事です。益々、核家族と言われている時代、隣近所との密接なつながりを持って、お互いが協力していくことができるようにしたいものです。孫が連結してくれる絆になっているようでした。これから、もっと良い近所付き合いをしていきたいと思うのでした。