2015年12月9日(八段語録2621)
極真を究める
十二月なのに小春日和です。日差しが眩しく輝いて、空は雲一つないのです。暖かな空気は地表を覆い、何か季節外れという気にもなります。自然神羅万象の中に、自然という心があるという思いになります。自然がこんなに優しく感じることができるのかと思う程です。この自然環境が、私のものであるように思ってしまいます。人生を歩んでここまで来たので、最高の生き方をしているという自負心に、この心を誘ってくれます。鳥の一羽、パンジーの花一束を見るにつけ、気持ちの良い心を感じるのです。自然の澄んだ空気を、自分の息吹のように感じることができます。かつて、流してきた汗と涙を忘れさせてくれます。そして、太陽は輝いていますから、眩しいのです。その輝きから生命の勢いを感じてしまいます。例え、木の葉が一枚落ちるのを見ると、一年の役割が終わったという、満足したような姿にも見えるのです。この眩しい太陽のもとで、私自身が天下を治めているようにも思えるのです。実に不思議な感覚です。
さて、私の人生のテーマは「極真」でした。極めるという事を重視した人生という事です。愛情に対しても突き詰めて生活しようとしたものです。そのような意味では、いつも家族が共にいるのです。知識で家族を、愛することは出来ないのです。そこには気持ちがあるのです。それも極と極を越えて、偏在し可能な限り家族を思いやるのです。愛情を通じてこそ、極めることができる「真」であると再確認するのです。それは、理知的だけではどうしようもありません。家族の為に、私が加勢することができ、いつも一緒にいることができ、共に生活するという気持ちは、一種の権限のように思うのです。それだから、家族の事を思うたびに、誰がどうしているのかなという第六感が働いて、心が動くのです。そして結構的中するのです。
ところで、家族の中で、夫が偉いのか、妻が偉いのかという素朴な疑問を持つとおもうのですが、それは、血液の中で動脈が偉いのか、静脈が偉いのかという質問に似ています。どちらも大切であるという事です。要するに私と妻は対等であるという事です。そのような対等な特権を持って生活している夫婦という事です。「天上天下唯我独尊」であり、お互いが寄り添って、家族を運営しているという事です。基本的に私は貪欲なのです。何でも挑戦します。そして余すことなく人生を謳歌しようとするのです。家族に対しても、いい加減にしないのです。家族を愛することにおいても、欲が深いのです。この肉体を鍛えて、極真空手を継続するのにも、そこには貪欲な気持ちがあるのです。最高の体力と愛情でもって、家族を愛したいという欲求なのです。その道を究めようとするのですから「極真」なのです。
そのような意識を持って、今日は過ごしました。「極真」は素晴らしいという事です。かつて、池袋の本部道場で稽古していた時の事を思い浮かべます。四年間本部に通い詰めました。そして、総裁との絆を持ったのです。何度も稽古が終わってから、総裁から説教を頂きました。「やればできるじゃないか」という言葉は私の励みになりました。そして、その期間があっという間に過ぎましたが、そこでの多くの恵沢は今でも忘れることは出来ないのです。これが私の「極真」の伝統になったのでした。