2015年12月8日(八段語録2620)
妻に牛耳られているのです
極真会館で心身ともに鍛えぬいて、八段まで昇りつめたという自負心があるのですが、家の中では、虎のように鍛えたのにもかかわらず、小柄なウサギのような妻の千順さんには、どうすることもできなく、言われたまま、指示されたままになっているのです。私の周りを遠慮なく動き回るし、掃除のときなどは、すぐに排斥されてしまいます。そして、そのような状態でも何ら不満そうな顔は出ていないという訳です。それは、太陽の周りを公転している地球のようなものなのだと思うようにしているのです。そのような存在に千順さんはなっているという事です。私と共に人生を過ごしてくれただけで有難いと思っているのかもしれません。
妻が私の周りを掃除してくれるのも、生活の為ではないのです。生きるためでもなさそうです。もちろん、付録的にはあるのでしょうが、愛情を育んできているという事だと勝手に思っているのです。私も妻に「絶対服従しろ」という気持ちを持ったこともないのです。不思議です。命令したこともないのです。亭主関白に表面的には見えるようですが、完全に妻に牛耳られているという事なのだと思うのです。
さて、妻の千順さんとは、青春時代に出会って、日本中、南から北へ、東から西へ、夜も昼も四季を越えて、今まで夫婦として営んできたのです。どんなに変化しても、夫婦として離れることは無かったのです。飽きっぽい私が夫婦という単位を維持できるのは、それなりの信頼関係と愛情があるからという事です。季節のようです。春には、草木に芽を出させて、花を咲かせようとする力があります。夏には、生い茂らせる力があります。秋には収穫のように実りを結実させるし、冬には、枯れてしまいます。このようなサイクルは、変えようとしても変える力は草木にはないのです。私も季節のように、いつも妻を中心に歩んでいるという言事でしょう。そして草木のような自然な営みになっているのです。
ところで、最近渋谷区とか各行政で人権という名目で、同性婚を認めるような動きになっています。このようなバランスの取れない事を認めていいのかという事でしょう。人権は否定しませんが、その二人の中で引っかかって、行く事も出来ないし、来ることもできないようになるのではないかという事です。横に外れてしまうのではないかという事です。弱いものは強いものに行き、強いものは弱いものに入ってこそ、ちょうどど真ん中に定まるようなものです。弱いものは強いものを、強いものは弱いものを願うのは世の常です。女みたいな男を好きな女はどうなのかということでしょう。女同士で手を握る気分はどうなのかという事です。ソフトな女性の手がソフトな手を握るようでは、気分がいいのかなという事です。それ以上表現すると批判が殺到して炎上してしまいそうなので、カットという事にします。確か市会議員が集中砲火を浴びていた記事があったばかりですからやめます。
そのような事を考えながら、理想でありたいと願う、まともな夫婦になっているのが私達夫婦という事でしょう。そして、私が生涯守っていく妻と共にいるという事です。良い悪いはどうあれ、確かな家庭を築き上げたいという気持ちが大きいのだという事で、表現してみました。同性婚を望んでいる人から見るならば、違和感があると思いますが、私からするならば、妻に牛耳られていたとしても、同性婚には違和感があるという事なのです。