2015年12月7日(八段語録2619)
どんな人にも愛情は必要
いろいろと動き回って、活動しているうちに一日が終わってしまいます。それも十二月の師走ですから、余計にそう思うのかもしれません。昨日は、山梨県から、石巻市に被災者に慰問に来られた婦人の方が、私の元を訪ねてくれました。私も被災者という事でしょうか。慰問していただいたという事なのかもしれません。三時間余り、話が盛り上がりました。師範室で話しましたので、私の土俵という事もあって、被災時の事を含めて、壮大な私の人生にも及びました。
その中で、武道における青少年教育に関して、興味を持っていただきました。婦人達に話をするので、言葉を選んで、失礼のないように話を進めましたが、それでも、一番強調した、夫婦とも、浮気や不倫をしない生き方には共感を覚えてもらいました。そして、私が、お互いを傷つけない生き方を努力しているという事には、敬意さえ頂きました。そんな事を話したものですから、これからの家庭の在り方を学ぶ場になったという事なのだと思いました。 それなりに一生懸命話しましたので、婦人の子供達や孫まで空手を習わせたいという事を話してくれました。有難いことです。また極真空手の宣伝をしてしまいました。
さて、思い通りに行かない人生ですが、私が挑戦したことを振り返ると、人間関係の妙味の鍛錬でした。デールカーネギーの話し方教室はもちろんの事、人を動かす、道は開ける、と様々な書籍を読み漁りました。それで、何を得ようとしたかというならば、信頼とか愛情という事なのだと思うのです。ちょっと、このようなテクニックは、ペテン師のように気持ちにもなりましたが、物質よりも人の信頼を得ようとしたのだと思うのです。自分一人で、「愛」とかなんとか言っても、ただ気が狂ったようにしか思われないという事でしょう。愛情というものは、相手が居なければ話にならないのです。自分自体だけで現れるようなものではないのです。結局、相手がいないと何の発動もしないという事です。それ故に、青春時代は、恋愛と失恋を繰り返すという事になるのでしょう。それも良いのかもしれませんが、私の場合、巧みな人間関係のテクニックを身に着けようとしたのでした。
ところで、私自身愛情としての、本分を尽くそうとするのです。それは人間を研究するという事でしょうか。それは面白味があり、食べる心配よりも、寝る心配よりも、着る心配よりも、どんな趣味よりも、人と和することができれば、幸せが向こうから飛び込んでくるのです。どんなに世界を回ってみても、どんな土地に行っても、人と会話しなければ何も面白くないのです。自分自身の人生の面白味が無ければ、生きがいはどこから生まれてくるかというのです。まあ、行ってみれば何かを恋しく思って生きるという生き方を選択しているのかもしれません。やはり、一人では、愛情を培う事ができないという私の結論という事になります。とにもかくにも、孤独は嫌いであるという事です。
最近、思う事があります。妻の千順さんが心配して色々と怒ってきます。その動機は、私に対する愛情である事が良く分かるので、どのようなきつい言葉でも受け止めようとしているのです。普通の人が言わない程に、強い口調で話してきます。その表現を受け止められるのは、かつてデールカーネギー等の書籍を読み漁りながら、人を大切にしようという価値観から生まれているのではないかと思うのでした。