2015年12月6日(八段語録2618)
周囲に振り回されることなく思う存分に

 自由に道場を運営したいという事で、束縛されないだけの基盤を造っていこうとするのです。それが運営していく動機なのです。これが根本にあるのです。それで、必要以上のお金もいらないし、また、経営のマニュアルが必要でもなく、何かの権力も必要でもないのです。そのような内容は、特に強調して欲しなくても、付いて来ればいいものだという気持ちで、求めるものではないという発想なのです。それなりに、在るものを、どうして求めてどうするのかという事です。在るものを発見するという事も必要だとは思いますが、それで博士号を科学者が取得するのを否定するものでもないのです。自然の中から学んで芸術家として栄光を受けることも否定するものでもないのです。そのような意味から、歴史上の英雄豪傑が偉いと言っても、大国を統治した皇帝がいたとしても、過ぎ去っていくだけだという思いがするのです。権威とか権力のもとで踊っていく、人生にはしたくないというのが、私の本心なのです。
 さて、人として、極真の指導者として考えることは、自由に多くの道場生を教育したいという事です。人は、束縛されたならば、生命掛を賭けて、自由を求めます。ここだけしか行けないとなると拘束感が広がるのです。東西南北、上下左右、前後と動きたいのです。一つの自由なサッカーボールのように転がりたいのです。それが歪であると不自由さを感じてしまうのです。また、世の中が評価する自然界のある公式とか原則を発表してノーベル賞を頂いても、私の場合は、嬉しくもなんともないという事です。もちろん、そのような興味や能力があるわけではないのですが。そのような価値観は、私にはないという事でしょう。たとえ、評価されても、私の願う喜びと何ら関係がないのです。
 ところで、そうだからと言って、道場を自分勝手にしたいという事ではないのです。あくまでも、道場生を、社会に役立つ理想的な人物に育てたいという欲求が強いのです。これを許されるならば、永遠の道場の方針なのです。このような教育方針と、立てておいて、天理の原則に適った人材を育てるという事に、どれだけの喜びが秘められているか分からないという事です。このような生きがいのあるミッションに投入することが、最大の幸せであるという結論を持っているのです。絶対に道場生を踏んづけて、自分勝手にしたいという事は、一瞬でも思わないのです。そのような発想が私と綿密に関係があるという事なのです。何のために道場を運営している以下という根本問題になるのですが、その答えはというならば、刺激的で衝撃的な人生を送るために、青少年教育に徹しているという事なのです。これが私の本音なのです。
 今日も色々な作戦を立てるのです。それは、実に心がウキウキします。決して実現できるものばかりではないのです。それでも思い描くことをやめないのです。日曜日なのですが、肉体の鍛錬を怠ることなく、トレーニングを重ねて、体調を管理しながら、前進するという事です。肉体が思うように動くという事の幸せを実感しています。もちろん、日曜日ですから休めば良いのですが、心の赴くままに、自分自身に負荷をかけて、頑張ろうとするのです。貧乏癖が治らないと言われれば、そのようだという事です。何か納得のいく一日として、過ごそうとするのです。家族対話も欠かさずに、話し合いながら、楽しいひと時を過ごしたのです。