2015年12月4日(八段語録2616)
最高の贅沢をしています

 基本的に心を興奮させるようにしないと、何の刺激もないので、退屈になってしまいます。子育てが終わるような年齢になって、子供に対する意識は、ハラハラドキドキという側面から、落ち着いて見つめていくような、方向へ気持ちは向かっているようです。それでも親子の関係が一番刺激的であったように思うのです。そのような事を悟らせてくれた、波乱万丈の人生だったのだと思うのです。一人でいる時は、刺激がないのです。テレビを見ても、読書をしても、あまり気が乗らない時が多いのです。そのような意味では、何か熱中することができる対象がないと励みにならないという事です。どのように寝そべっても、そのような結論しか出てこないのです。愛が交差する一点、生命が交差する一点、理想が交差する一点を求めていこうとするのです。その交差する一点は、家庭であるという結論を私は出しているのです。どのような自己中心主義者であっても、子供が生まれると、愛情を無制限に投入しようとするのです。不思議な気がします。もう、利害打算という発想は無いのです。子供によって、子供と共に生きたいというような気持ちになっている姿を見るのです。
 さて、今日は朝からトレーニングです。プールで体をほぐしながら、十日分の運動不足を解消しているのです。ちょっと水しぶきを上げすぎて、プールの監視員から注意を受けてしまいましたが、耳にヘットホーンをつけているせいか、全く気にならないのです。音楽が外部からの音を消し去っているのです。それだけに集中して、次から次とプログラムをこなして、あっという間に二時間が過ぎていました。身体は十分に引き締まりました。やはり、日ごろ動かしていないと退化してしまうような気がします。何事も完全投入という事でしょう。自己を主張しようとは思わないのですが、目立ってしまいます。そのようなトレーニングを終えて、消防団の会議、忘年会とこなして、帰宅したのは夜の十時すぎでした。出張中とは違って、気持ちの落ち着きはありますが、それ以上に、環境が守られているだけ、投入したい気持ちが強くなります。
 そのような時間を過ごしているうちに、骨の骨から、肉の肉から、骨髄の中の骨髄から、極真空手の師範で良かったと思うのです。極端ではありますが、極真に引っ張られてきているという事でしょう。この稽古があるから、妻と向き合う事ができて、愛情を共有することができるのです。私の意識は、愛情という見えない存在を、見えるように実現化するという事です。その為に投入し続ける存在になるという意識なわけです。生活すればするほど、生命が躍動して、見れば見るほど、モデル的存在になるという事なのです。私の欲望は、この極真の指導者の地位を奪われまいとするのであり、無価値な人生など、まっぴらごめんという事なのです。人生で一番尊い生き方をしていると、自分なりに判断しているのです。私にとっては正解なのです。
 そんなわけで、価値ある生き方を知った以上は、継続していくだけです。そのようなポジションを獲得したことを、誇りに思うのです。誰にも遠慮もいらないし、法律に違反するわけでもないし、やめられない、止まらない領域に入ってしまいました。そのような事を、書き記す自分が存在します。実に真面目そのものです。