2015年11月24日(八段語録2606)
いろいろな刺激を受けて考える事

 とにかく驚くことが多いのです。東京で出会った友人が、マンション11棟を持つ経営者になっていたのです。借金が16億もあり、平然と銀行から融資を受けて運営しているのです。彼は、熱帯魚の経営を十年余りしていて、その信用をベースに銀行から、一棟につき億単位に融資を受けているのです。その友人と、夕方五時から十一時までの間、その経営努力を聞いたのです。私からするならば、度胸があると思うばかりでした。真似をすることは不可能に近いという思いがします。もちろん、私が極真会館の師範をして、多くの弟子を指導しているという話は、友人にとっては、未知の世界のようです。とにかく道を究めていくという事は、友人でも私でも、すごいことであると賛辞を贈る以外にないのでした。人が極めてきた道、私が極めてきた道、比較することはできませんが、どちらにしても、人生一度しかないので、自分の道を全うするという事に尽きるという事なのだと思うのでした。
 さて、友人はともかく、私の立場は、下宿を営む母の嫡男であり、妻がその継承者という運営をしているという事、親父の継承をして農家である事、極真会館の手塚グループの副会長である事、そして地域社会に対して、保護司をメインとしてあらゆる奉仕活動をしているという事であるのです。そして、人材の教育を意識して、社会に良き人材の輩出を心がけているのです。そのような事を今まで実践してきて、友人から話を聞くにつけ、確かに影響は受けますが、全く違った生き方に対して、真似しようとは思わないのです。そして、商売人ではありませんから、お金が回るという事に関しては、良いと思いますが、それで人生の大切な時間を費やしたいという気持ちにはならないという事です。まして、違った分野で、素人のような立場で、事を推し進めるとしたならば、自らを滅ぼすことになるという事です。結局、心が伴わない投資は難しいという事でしょう。
 ところで、私の生き方を、個人の私的な思いを捨てて、公益の為に生きる人生を選択しているのです。基本的に友人の生き方と合わないのです。財に目が眩むと、かえって自分の生きる価値を見失ってしまいます。いくら年月が過ぎても、世の中が変わったとしても、生き方を変えられないという事です。というのは、いくら急激に世界が変わったとしても、私が生きていく体質は変わらないという事です。最も自分が信頼している師は、良心なのです。このように友人から色々と刺激を受けても、結局は良心従うのです。私の尊敬する政治家の先生に話を聞いたのですが、地上で人生を終えてあの世に行けば、生涯、自分が生きてきた人生が、録画のように展開するというのです。どのような、あの世に行くかは、自分が決定するという話を頂いたのです。
 そのような意味では、友人と話した後、心を明るくし、清めようとするのです。私と私の良心だけ、この二人が対面するわけです。とても孤独のように思われがちですが、心が親しくなる時間、私にとって、瞑想の時間という事になります。友人の話を聞きながら、どのように展開するかという事を脳裏横切りながら、心が落ち着く、その場所まで降りて、一人多くの時間を費やしていきたいと思うのでした。今日も一日、多くの刺激を受けながら、自分の人生に対して考える時間を持てたという事に感謝という事です。