2015年11月10日(八段語録2592)
人としての条件

 小学生にも黒帯を授与するような団体があります。その団体の方針でしょうから、とやかく言うべきではないと思います。しかし、極真会館宮城県本部では、男女ともに、武道をベースに、結婚しても家庭をしっかり維持できるレベルが黒帯であると思っています。極真空手は確かに強さを追求しますが、それ以上に、人としての成熟度を求めます。武道を極めたものが、離婚再婚を繰り返すようでは、お互いに傷つけあうだけであるという信念のもとです。それだけに、入門の時は白帯から出発し、体力的なもの、技術的なもの、そして精神的なものを極めていこうとします。小学校卒業までに、六級ないし五級になれるようにという事です。十級から始めますから、一学年一つの級を昇級できるようにという事です。体力的にも、技術的にも、精神的にも一歩一歩、熟成するように成長を促すのです。それでも、五級のレベルまで到達するという事は至難の業なのです。そのレベルに達すると、少年少女であっても、神秘的な武道精神の穏やかさを発するようになります。
 中学生・高校になると、四級・三級の緑帯を締めるようになりますが、学業と空手の両立を図り、あらゆる誘惑を退けて、真っすぐに青少年として育っていけるように願うのです。もちろん、試合にも参加しながら、厳しく自分を見つめるのです。一生懸命に自らを磨くことによって、人々に影響を与えるような、引き込む力を身につけるのです。その人自身が色々な味わいを醸し出すのです。ちょうど海が翡翠のように見えますが、時には銀色に成り、さらに千態万象に変化します。そよ風のように、清々しく、美しく何とも言えないような輝く、男女として成熟していくことを願うのです。空手道というステージから、羽ばたいていく光景を浮かべるのです。あくまでも空手道のステージは狭いものです。その狭いステージでも誰から見られても、ダンサーや舞姫以上の人格を磨くという事です。
 そうして、大学生や社会人として成長した時に、一級・二級という茶帯を身に着けるようにしているのです。ここでの修行は、無限です。舞台が大学という大人として扱われ、当然社会で勤務するような道場生もいます。そこは、一度荒れれば、荒野で飛びかかってくる虎やライオンが右往左往しているのです。今までの修行での成果など、いっぺんに飛んでしまうような試練が待ち構えているのです。それを考えてみてください。「お前の修行をしてきたことなどゴミのようなものだ。勇壮な世間の気勢はかなわないぞ」という威勢が、堂々としているのです。その試練を越えていくのが、この時期であり、そして、黒帯を目指すだけの気概を大きくさせるのです。そのような道を究めてこそ、黒帯の資格を得るというものです。
 決して、黒帯の極真精神を身に着けた道場生は、尻尾を振って、頭を下げて、世間の波にのり、波のなすがままの、自らの勢いがない、人格者にはしないのです。極真の黒帯は凄いと言わしめるようにしたいと思うのです。そして黒帯は傲慢にはならないのです。黒帯を取ってからの、人生は、無尽蔵の宝の山が眠っているのです。その人生を歩むばかりなのです。自然は、いくら花が美しいと言っても、花はその場を動きません。しかし、黒帯を取得した道場生は、世間の荒波を美しく舞うのです。そんな気持ちで、道場生を温かく見守って行こうとしています。そのような人生を生きる条件を立てようと武道教育に勤しんでいます。