2015年11月6日(八段語録2588)
現実はあらゆる刺激を供給してくれる

 ちょっと最近は、妻の千順さんが広島で実家弟の介護に行っているので、日々のスケジュール早朝からとはいかないのです。早朝から一日活動して、その日になすべき責任量を達成することを、生きがいにしてきましたが、この一か月は、私の精神が、一日に反映されずにいるのです。そのような事で、ねばり強さと忍耐力が欠如しているようにも感じます。
そうはいっても、一日はただ漠然としているのではないのです。色々とやるべきことが多いのです。自らの培った専門的な知識や経験が、この一日には必要なのです。今までの極真での厳しい修行を受けたことによって、一日をこなすだけでなく、今日という新しい環境を克服して、道場全体を、正しい方向に導くような活動をするのです。人は現実という壁に立ち向かうのです。この現実が、私に色々な刺激を供給してくれるのです。現実の壁が無くなって静かになれば、生きがいも、やりがいも無くなってしまいます。そのうちに私自身が無気力になってしまいます。現実の壁が大切であるという事を知れば、もはや恐ろしくはないのです。どんな荒々しい現実でも、私自身を生かす道であるという事を知れば、現実というものに、魅力さえ感じてしまうのです。
 さて、現実を乗り越えると、もう壁は存在しません。過去を振りかえるということになるのです。その気持ちは、清々しさだけが残るのです。もう過去に関しては、美しい彩がなされて、ひらひらと輝いているのです。もちろん、悔しいこともあるのですが、それも静かな平和な世界という事です。この現実というものは、自分を変えるチャンスという事です。あらゆる可能性を育成して、包み込んでくれます。
人一倍好奇心の強い私ですから、どんな現実も克服して、強靭な探求精神から、華々しい人生を送ろうとする意欲がみなぎり溢れてきます。この私の極真人生は、道場の行き来による稽古によって身についてきました。そして、自然の太陽と月、神羅万象によって、生かされてきたのです。それを感じる年齢になってきたという事です。
 ところで、このように培った精神は、巨大になっていくのです。私の歩みが極真全体の方向性になるし、もし私がいなければ、宮城県本部は循環せず、生命力を失ってしまうという気持ちになるのです。いくら道場生がひ弱な入門者であっても、結局は、極真の伝統に飲み込まれていくのです。道場の稽古そのものによって、生かされていくのです。優秀な道場生になればなる程、結局は極真の強い力に後押しされて、大きく成長していくようになるのです。そのような意味では、極真の道は、優秀な道場生を育成していく源泉になるという事です。このような正しさを実証するためにも、最前線に立って指導しようとする心構えになっているのです。
 このような精神的バックボーンを築こうと、大自然を眺めながら、思いを道場に馳せているのです。夕暮れの畑は、私に色々と想像させてくれます。それも、自然の原則での発想ですから、大きい割には、理に適っているのです。そんな自然を楽しみながら、一日を終えようとしています。今月十一日には妻の千順さんが家に戻ってきます。それまで、わずかであるので、帰ってくるのを楽しみに、今日一日に勝負をかけていきたいと思うのでした。