2015年10月30日(八段語録2581)
自然との調和から学ぶ
いつものように、トレーニングを開始して、心身の充実を図り、今日も頑張るぞという気持ちで、北山事務局長と一緒に枡江に向かいました。そこは与平沼があって、この時期の紅葉と沼との調和がなんとも神秘的なのです。少年時代、ここに魚釣りをしたことを思い出してしまいました。この景色の一握りに、子供時代の思い出や、壮大な天地の輝きを感じるのです。日光が眩しく湖面に差し込み、紅葉の真最中の木々の一本も無限な輝きを放っているのです。草木だけでなく、湖面で悠々と泳いでいる鴨の群れや小鳥の飛び交う光景は何とも魅力的です。このような風景を何と考えるべきでしょうか。心の安らぎであり、すべてが「良い」というほかないのです。午後のひと時、時間を惜しまずに風景を眺めると、こんなに素晴らしい景色に感嘆の声も出てしまいます。仙台市の真ん中に、このような場所があるという事が素晴らしいと思うのでした。
さて、こんな心境で景色を見られるようになったのも、歳を重ねてきたからという事もあります。一握りかもしれない与平沼の自然は、私の心の慰めになります。また喜んでいる地自分がいるのです。いつも自然の恩恵をどれだけ感謝しているのだろうかと反省もします。そして、今、最高に自然を慈しんで見つめているのです。空手道に生き、理念を持った歩みを続けて、誠心誠意心を固めて歩んだ私だとしても、小さな草木からこの与平沼のような環境に至るまで愛情を持って、見つめることが出来るかというならば、今にしてできる事であろうと改めて心を砕くのでした。
ところで、ちょっと考えてみても、食物をとらなければ、私達の生命の要素を維持することはできないのです。それゆえ、このような自然が私達を生かしているという事は否定することもできないのです。それゆえに、自分自身の尊厳をもって存在させてくれるのも、結局は、自らに本質を成す要素として供給してくれる自然に対して、感謝の気持ちを持たなければならないのは当然のことなのです。そのような意味では、この年齢になって初めて、自然の正道を整えることができ、自然と相通じる立場に立って、堂々と歩むことが出来るのではないかという気持ちになります。
結局は、自然の尊さを感じてきているのは、やっとこの歳になってからという事なのだという事です。もう一度、歩んできた人生を回想しなければならないという気持ちになります。そのような事を意識して、道場に帰ってきました。日々自らに問う事が多くなっている昨今ですが、壮大な人生の設計をしようともしているのです。人生のスタンスを百二十年として考えたならば、まだまだやらなければならないことが多すぎます。そして、人生のモデルをモーゼに標準を合わせるとするならば、まだまだ修行の荒野にいる時という位置づけです。それだけに、準備しなければならないことが多いのです。
必ず、生まれてきたからには、使命があると思っています。それで少しスタンスを広げて、考えようとするのです。これも自然が私をそのように誘っているのかもしれません。モデルをモーゼに標準を合わせただけで、やることが多すぎするような気がします。家庭を背負い、地域を背負い、いずれは国に影響を与えることができ、世界を正しい方向に橋渡しできる道があるのではないかと模索は続くのです。