2015年10月24日(八段語録2575)
葛藤する心を携えて
一週間の下宿のお手伝いをして下さった婦人に心から感謝をしています。丈夫ではない身体を酷使して、毎日通ってくださいました。そんな気持ちなので、良心は、涙がぽろぽろ流れても、なお声と涙が尽きることないほど、有難く感謝の念に襲われます。この事を表現しなければ、心が痛むのです。自らを、滅ぼすように思えるので、「感謝で有難くて、有難くて」という表現をブログで書き綴っているのです。我が家庭の為に献身的に、一週間心を込めてくださった事、忘れることが出来ません。忘れるとしたら、自己消滅に匹敵するぐらいの事のように思います。今日娘たち二人が返ってきました。今は妻の千順さんだけが広島の弟の世話をするという状況です。結局は、人生あらゆることが起こりますから、その時に私的な事を捨てて、為に生きるという気持ちが大切なのだという事を知らされます。千順さんも、この一か月間、思い残すことなく、実家の為に生きているのです。それを心から見守れる気持ちになれるように努力です。
さて、このような事は孔子や孟子、釈迦に至るまで、聖人であれば、誰でも諭して語るような内容であると思うのです。古今東西を問わず、あまりにもありふれていて、その価値がどのようなものかを見失ってしまいそうです。それでも、実家の為に頑張る妻が早く帰ってこないかと思う心、下宿の手伝いをしてくださった婦人に対して思う心、両方為に生きてくれた女性なのですが、自分のもとから実家に手伝いに行く妻と、下宿を手伝ってもらった婦人に対する気持ちには落差があるようです。人の嵯峨のような気がします。それでも、心を正しくして、両方が公益の為に尽くしてくれた期間として、有難く思うように、気持ちを整えているという事です。理由は、世の中が変わったとしても、いくら歳月が過ぎたとしても、世界がいくら急速に変わったとしても、素晴らしい事という本質は変わることがないからなのです。
そうであっても、最も親しい妻の千順さんが我が家にいないのは心が寂しいのです。良心は自分の指針ですから、逆らう事はできないと分かっていても、最も親しく、最も尊く、思っている人がいないのは、辛いものがあります。確かに電話では、要件を話す言事が出来ても、気持ちの息遣いが伝わってくるわけでもないのです。その寂しさの事実をしっかり直視して、心を磨いて、妻に「広島の実家に思い切り尽くしてきてください。」と心の叫びを届けるしかないという事でしょう。そうしないと良心に引っかかってしまって、何か自分の為にしてくれという欲求のままに、影があるような日々になってしまいそうだからです。自分が生きている日々が録音テープのように再生されるとするならば、良心に恥じない心持のままでいたいと思うのでした。
今日も清々しい晴れた一日でした。畑の仕事もおおかた目途がついたというところです。冬を迎えるので、土を耕して、雑草を取り除き、石灰を入れて、来春に向けて準備です。大地の恵みに、これも感謝というところです。理由は、心を明るくなるし、大地が心を清めてくれるようなのです。そして、私と私の心、この二つだけが対面できる素晴らしい農地なのです。とても孤独な期間ですが、それに耐ええるだけの自然の恵みという事です。