2015年10月12日(八段語録2563)
空手着は決して脱がない

 二時間半の稽古でした。若い時との密度とは違っていますが、リハビリを兼ねた稽古をしています。還暦を過ぎても稽古をするという事は、まだ空手着を脱がないという事です。少しでも、極真空手の最前線にいたいという欲求からなのです。まだまだ修行者としては、不十分という事もありますが、まだまだ修行は終わっていないという気持ちからだと思うのです。険しい道を自分に課さないと、後に続く道場生に、道を示せないからだと思うからです。いずれは、道場生も還暦を越えてくると思うのです。
その時、私がどうであったかという事が道場生によって問われるのです。時間差で同伴していくことになるのです。平安と安定の中に忍び寄ってくる怠惰な自分との戦いは始まったばかりです。そうでなければ、喜びの日々を迎えることはできないという結論を出しているのです。今課題となっていることは、安定と安心を得ていくために、困難な稽古に立ち向かうという事です。この挑戦なくして、未来はないという気持ちは大切と感じるのです。
 さて、幸福というものを探し出す道理はあるのかというならば、私には極真空手とそれに伴う家族という道しか知らないという事です。そこで探し出すことができたかというならば、はなはだ疑問という事です。実際に歩んでみての感想は、悟ることができない私が、困難な修行を道として歩む時、その修行を避けようとしても、決して人生の苦痛を避けることができないという事です。
多くの人は人生で悔しくて無念さに打ち勝つ忍耐心を失う人が多いのです。この忍耐をなくして、どのような修練を行くという事でしょうか。私は、「押忍」という精神の奥深さを感じるこの頃です。当然苦痛の峠、悔しい気持ちの峠、悲しみの峠を超えていくという事を心に決しなければ幸福という事とは無縁であるという事です。その意味で、押忍という姿勢を貫き通すという覚悟が必要であると思うのです。そんな気持ちを味わっての稽古でした。
 ところで、稽古すれば、肉体が軋むのです。疲れも若い時とはかなり違います。それでも、稽古し続けるという事を続けるのです。なぜなら、安楽な事ばかりではない人生は続くのです。それだからこそ、天をつかみ、地をつかみ、家族を掴んで、笑ったり、泣いたり様々という事です。誰からも、歓迎されたいとは思いますが、自分の進むべき道を切り開くだけです。千差万別の環境の中で、いろいろな扱いをされますが、それに不満を持たず、自分の信念を貫くだけという事を意識しています。そうでなければ、自分を裏切ることになってしまいます。他人は関係がないのです。
 今日も白い空手着に黒帯を締めながら、稽古です。歯を食いしばって、次のステージへ登っていこうという意識がある限り、現役です。肉体の衰え、頭脳の衰え、気持ちの衰えを、軽減しながら、戦い抜くという気持ちがないと、どうしようもないのです。酒、たばこ、ギャンブルは禁物です。あらゆる家庭を壊す要因を排除して、極真という一本道を貫くという覚悟を持というという事です。今日の表現は思い表現をしています。それは一寸先の暗闇をい切り裂くような心境です。まだまだ心身ともに健全であるという事です。消化できない人間関係には、深く入り込まないようにという意識が頭を過ります。