2015年10月2日(八段語録2553)
指導者の為の教訓
稽古の繰り返しで何を創造することができるでしょうか。極真の稽古は、指導者のもとに、一致団結する稽古スタイルなのです。その稽古に自らを投入するという事は、自らに新しい刺激をするという事であります。指導者も道場生も、この稽古の時間は、神聖であり、空気が張り詰めるのです。この稽古という洗礼を受けなければ、生活が習慣化し、いつの間にか利己心が頭をもたけるのです。稽古では、指導者は道場生の為に心を砕きます。そして道場生は一生懸命空手道の奥義に触れていくのです。この稽古では奪う原理ではなく、利他的な原則が働くのです。はっきりしていることは、武士道とは仕える立場を強調します。歴史的にも、武士達が皇室を武力で制圧した歴史は無いのです。当然のことながら、仕える事よりも仕えられることを望む武士道はないのです。自分自身の利益の為に、他を従属させるという事はあり得ないのです。
さて、実際過去に起きたことですが、指導者の中で、極真会館宮城県本部の中心者以外の、もう一つのプラスの力を取ろうとする人になっていった話です。二つのプラスは、お互いに反発しあうものです。極真会館の道場生として、誠実な指導員としての立場を離れ、中心者に挑戦し、中心者と競争したのです。彼らの動機は利己心に染まっていったのです。彼らの利己心から、極真会館宮城県本部と関係のない、組織を乱すものとしての崩壊の源となったのでした。本人達は、自覚したのかしないのか分かりませんが、結果的に袂を分かれて、独自の道を進んだという事実なのです。このことは何度も日々の会議で語っていたことですが、利己心に固まった者達には、もう私は、何の手を打つことができなかったという事です。
事の次第はこうでありました。つまり、道場生が反旗を翻した指導者の最初の犠牲となり、道場生も中心者を離れて利己的な存在へと変身し、結果的に極真会館の道場生としての位置から離れたのです。そして、その指導者と道場生は一緒になって、首尾よく、利己的な世界が正しいかのような世界へと引き込むことに成功したのでした。この出来事から、その指導者の引き込んだ教室から中心者が孤立させられたという結果になったのです。かくして、そのような反旗を翻した指導者と道場生は、二度と極真会館とは関係のない存在になったという事です。極真の歴史も伝統も関係のない世界に反旗を翻した指導者とともに歩みだしたという事です。これは、事実であり、私達極真会館宮城県本部の教訓なのです。そのような奸臣が生まれないためにも、指導者はどうしなければならないかという事、そして、道場生は道を外さないようにすべきであるというのが、これからの課題という事になります。
そのような利己心を煽るような指導者に目を配るような、健全な道場が菅野師範によって運営されているのです。利己心が横行する道場になると、いずれは、犯罪の温床になってしまうのです。決して健全な青少年教育にはならないのです。動機はどうあれ、自分自身の利益の為に、道場生を支配して行くのです。ほかの人の為に自分自身を犠牲にするという押忍の精神とはかけ離れてしまうのです。道場は、健全な精神と健全な健康を失ってはいけないという思いになります。人間としての健全な武道精神という最高の形を教えるために、最も進んでいる極真会館宮城県本部としての確立をする決意を固めているのです。