2015年10月1日(八段語録2552)
真を貫く
いつの間にか、残すところ、三枚カレンダーをめくるだけの十月を迎えるようになりました。月日が経つのは早いものです。この大地に立脚して、極真の道を歩ませていただいている事に感謝という事なのです。理由は「真」を極めるという事だからだと思っているのです。まぎれもなく、真実を極めるのが極真なのです。そしてその道を貫く努力を積み重ねているという事です。その「真」は世界広がっている極真会館の道場生が貫いているのです。もちろん、いろいろなレベルがありますが、それでも私としては嬉しいのです。欲を言えば、空手界として「真」としての道を共に歩みたいという思いがあります。現実は、お互いが反目しあっていますから、ほかのグループから見た場合、「真」ではないというような評価になるのです。その溝を埋めるために、天の采配のオリンピック種目に取り上げられるという恩恵もあったと思っているのです。
さて、今回のオリンピック種目になれるという事は、除名したり、破門したり、脱会したりという、さまざまにもつれている空手界に希望をもって再出発できるチャンスになるかもしれないという事になるのです。どんな立場の人にも、最高に寄与できる道が切り開かれたのであり、お互いを頼りとしないと成し遂げられない大事業という事なのです。人は、どんなに争っても、誰でも切に事情と心情に通じたがりたいものです。それは、誰もが「真」を望むからであるという事です。書くことだけはできるので書きますが、すべてを相談することができる環境、すべてを願う事ができる環境、そんな立場にお互いが立つならば、「真」であるという事です。この空手界がお互いに憎んでいては話にならないのです。そんな関係が継続するならば、お互い「真」ではないという事なのです。私達は極真を歩む以上、偽りにならず「真」を貫き通したいものです。
ところで、この世界を見渡すならば、「真」よりも偽りの事が多すぎるのです。善人よりも悪人がはびこる社会となってしまっているのです。偽りの多い社会の中でも、良心のある限り、「真」を求めるに違いないのです。過去を振り返ってみて、日本の歴史に大きな貢献をした伊藤博文でも、他の国からすれば大悪人なのです。そして、その伊藤博文を殺した人物が英雄になっているのです。我が国から見れば、千円札の表紙にもなる程の「真」を尽くした人ですが、他の国からは大悪人なのです。それは仕方がないと言ってしまえば、それでおしまいですが、極真の道は、そうあってはいけないという見解です。例えば、お釈迦様を大悪人と言わないのです。孔子や孟子に至ってもそうなのです。誰からも慕われる道、それが極真でなければならないという観点が私にはあるのです。
そのような事を考えながら、十月一日の一日を価値ある一日として頑張りたいと思うのでした。それでもほとんどが消耗戦のような気がします。「真」を貫くということは、偽りをもって対応することとは違うのです。社会に対して真実の剣を投げ込む覚悟で「真」を尽くすという決意を固めるという事です。残念ながら、体調が東京を往復してきたこともあってすぐれませんが、稽古をしっかりして、体を維持したいと思っています。まずは今日一日、そしてこの月を体調鍛錬月間として強化していきたいと思っているのです。