2015年9月29日(八段語録2550)
ちょっと過去を振り返る

 修行時代の事を思い起こすと、自分の真剣であった事で、時間がいくらあっても話は終わらないのです。すべてがリアルで、汗と涙の連続という事なのです。この時期がなかったら、今の私は無いのです。実に大切であり、必要な時であったのです。滝で打たれたり、真冬の海に入って稽古をしたり、一日八時間も稽古をしたり、さまざま思い起こすだけで、気が狂っているのではではないかという領域に入ってしまうのです。
その中でも、稽古の中でも、どれだけ組手をしたかという事に触れると、骨の軋む音と筋肉の腫れあがっていく状態になるのです。それでも対戦し続けたかという思い出がたくさん残っているのです。ましれ自分が誰かにかなわないし、弱いとなれば、本部道場の地下の薄暗いところで、大きなサンドバックを突いたり蹴ったりしながら、何時間も稽古をしているのです。それも塩を舐めながらの歩みなのです。そんな事を繰り返して、強くなっていく自分の姿を誇りに思ったり、尊く思ったり、さまざまな心の葛藤があったのです。
 さて、今まで稽古人生で、道場で稽古をした時間は誰にも負けないくらい長いのです。もうすでに四十数年の稽古歴という事ですから、長生きはするものです。あらゆる人生の試練は、長く続けた稽古で克服してきたといっても過言ではないのです。目立ってしまう個性ですし、人と違った人生として積極的に取り組もうとしたのですから、誰が見ても印象に残ります。そのような意味でも話題の対象になるし、もちろん批判の的にもなります。人生を社会の列外での生き方を積極的に望んでいましたので、誰とも比較ができない人生を過ごしてきているという事です。
人としてどん底の世界は、あまりにもよく経験しているのです。今更生保護の仕事をしているのですが、仮釈放で刑務所から出てきた人に対して、彼らに生きる道を、いかなる方法とか方便を話すことができるのです。もちろん、サポートも的確という事になります。
 ところで、自分の空手の才能はどうであったかというならば、なにも見いだせないところから、時間をかけて、みじめな思いもしながら、特に、試合でも緊張しながら、最後まで継続するという気持ちを持ち続けていたように思うのです。表彰台に上がって、自分の名前が呼ばれ、評価などされたときは、その日は涙を浮かべて喜んでいたものでした。試合でも、勝ち続けて決勝に残った時の感動は何とも言えないものがありました。
そんなときは、世の中で何でも果たせるという気持ちにもなりました。そのような心境になれたのも、自分に対するこだわりであり、生命に対する執着という事だったのです。そんな境地になれたのも、生命を惜しむような境地で、稽古に専念してきたからという事なのだと振り返るのです。
 このような過去があるので、今なお、人生に対して現役であり、取り組む気持ちは誰にも負けないのです。一般社会人として暮らしたら、退職して、老後をどうしようかと思うのでしょうが、そんな気持ちは一瞬たりとも持たないのです。そのような意味では、今でも列外の人生を積極的に推し進めているという事です。そして、その気持ちに共鳴して、今の道場の指導者が育っているのです。それがまた自分の誇りであり、未来に続く道であると思って取り組んでいるのです。