2015年9月28日(八段語録2549)
何も収穫がないように思う時も

 午前中に保護司活動を行って二人の対象者と面接です。諸問題が目立つので、一つ一つ整理するという作業をしました。悲しむべき事は、犯罪が憎いというよりは、当たり前の社会人として対象者が独り立ちできればという事なのです。もちろん過去の過ちに対しては、悔い改めるという事が必要であると思うのですが、罪人であったからという嘆きよりも、一人の社会人として認められる人として確立して欲しいという願いだけしかないのです。私としての希望は、歓迎されるだけの環境を自分で整備していくべきであるという事です。人は過ちを犯すという事は当然あると思います。犯罪に至って施設で償ってきたのですから、社会で信頼される行動がとれるかという事に尽きると思うのです。人として当たり前ですが、社会に役立つ人間として生きることを望まれている運命の道を通らなければならないという事です。 
 今日は何をやってドジばかりという事です。よき価値観をもって、対応しようとしたのですが、なかなかうまくいきません。午後からは、環境に振り回されて、自分でも思うように過ごしていないという事になりました。本当ならば、一日ゆっくりしていれば、いいのですが、闘争本能が自分を駆り立てるのです。生きているという表現をしようとするのでしょう。最大の自分に対する損害も当たり前のように受け止めていくことなのかもしれません。どんなことがあっても、真心を込めていくしかないという事でしょう。それでも、今日の私をどれだけ成長させるかという事に一生懸命になる自分があります。確かに社会は混迷を極めていて、多くの事件が起きているのです。それでも、それだから嘆くのではなく、自分がまず確立して、社会をどうにかしようとする気持ちが大切であると思うのでした。
 しかしながら、社会を良くしようとする一個人の影響力がどれ程あるのでしょうか。わずかばかりであるという事は目に見えていますが、今の自分にとってそれが最大の取り組むべきことになると、気合を入れているのです。それで空回りですし、自分に対する損害ばかりなのです。社会に対する影響力の少ない私が、社会に何の影響を与えようとするのでしょか。誰が社会を良くするというのでしょうか。それが見る堪えない私という事になると、頼りないのですが、それでも私の双肩にかかっているし、この心と体にかかっているという事を自覚せざるを得ないのです。遅々たる歩みという事です。わずかな社会貢献でも、私が動けば社会が動くという気持ちと、この一日を一生懸命歩もうとする気持ちで乗り切ろうと思うのでした。
 そんなこんなで、役立たなくても、社会の為という気持ちだけは失わないようにという気持ちで、私が取り組むべきことに、全力を注ごうという事なのです。いつもの生活では地味にコツコツと積み上げていくことであり、勝負をかけるときには、全力で無我夢中に取り組むという意識を持っていこうと思うのでした。例えにもなりませんが、長距離を走るときにはハイブリットで、近距離ではディラーで無料の充電をしてプラグでというように、節約を旨として、省エネ・エコ運転で行こうとすることです。ここまで人生を歩むと、細く長くという意識になります。そんなつまらない事でも、書き記すという事にしました。