2015年9月18日(八段語録2539)
ため口

 いろいろな組織の中で、常に擁護派と客観派が分かれるものです。私が携わっているボランティア組織でもそのような内容になっているのです。もちろん、私は客観派ということです。ボランティア組織であることから、奉仕という事が前提なのですが、あまりにも世俗世界に汚染されているように思うのです。「私が長いものに巻かれろ」主義でいるならば、結構楽しいのかもしれませんが、そのような訳には行かないのが、私の気持ちであるという事です。
あくまでも公的な役割の任務を負うために携わってきているのですから、あまり気にしなくて良いという事であれば、それで済むことですが、自分の心は落ち着かないという事です。個人においても心と体が、意思疎通しないことがあります。まさしく、二つの勢力が分かれて対立するかのようです。例えばこの組織の中で、何ゆえに対立するように思うかというならば、対立する最前線があるからという事です。それは、私が極真の修業の道を今も捨ててないというところに起因するのです。世俗的ではないという事でしょう。
 さて、今日の一番客観的になってしまう事は、「ため口」での接点を求めてくるという事です。職務遂行の立場の名称があるのだから、その立場で接してくれば別に問題なく過ぎていくものを、なれなれしく「森君」だなんて呼ぶのですから、こちらとしては、背筋に寒気が生じてしまうのです。私としては、問いかけてしまいます。「お前と俺は親しい関係か?」という気持ちです。そして、あなたに対して「・・君」と私が呼んだならば、気持ちが良いのですかと問いたいのです。そのような呼び方を、私は「無理に呼ぶな」と言いたいのです。かなり無理して呼んでいるようですが、まさに茶番という事でしょう。虚勢を張る努力は認めますが、やめて欲しいものです。
 ところで、そのようにしか呼ぶことしかできない人に、何かを進言するという事は、悪い意味で「釈迦に説法」という事になりかねないのです。それでもその人に、「元を正せば、すなわち自分の心身の闘争こそ最悪の対立ですから、それを治めなさい」と言いたくもなります。人の中に、常に目に見える自己と目に見えない自己との間に闘いがあるという事を、はっきり認識して欲しいという事です。どう見ても、任務以外の世俗的な欲求がありありと見え隠れするのです。そして、人に対してイエスマンを望むのです。私に火をつけたならば、戦場に出るようなものになると苦言を呈したくなります。まさしく、自己防衛しておかないと、機関銃のような私の攻撃が始まるという事です。私の迫力あるパワーで痛い目にあってしまうという事です。
もちろん、私がそのような攻撃をする馬鹿げたことはしないと思うのです。私もそのような連中と「同じ穴の狢」にはなりたくないのです。常に、私がそのレベルに落っこちることを願う人がいたなら大変です。そのような意味では、いつも自分の世俗的な欲望を否定するところから、修練をしなければならないと思うのです。世俗的な誘惑の多いところを避け、この組織の世間的な部分を排除して役目に徹するようにすることが、正しい選択であると思うのです。修練の道でジグザグコースは歩みたくないという事です。