2015年9月14日(八段語録2535)
押忍の精神

 極真会館に入門するとなると、基本・移動・型・組手という稽古があります。入門してから、自分勝手な稽古は許されないのが道場です。それは、道場生が極真の伝統を正確に継承するために、どうしても必要とする要求なのです。老若男女問わず願われるのです。それは、道場の為ではないのです。あくまでも入門した道場生が成長して、立派になっていくためなのです。本来の武人としての完成を目差し、自らの未熟さを押しのけて、乗り越えていく立場に立つという事なのです。
振り返って、私が入門した時の事を思い起こすと、私よりも才能のある人材は腐るほどいました。しかし、多くの場合、自分の才能におぼれて、苦労という道を行かなくなるのです。そして、きつい稽古に絶対に服従することができなくなり、道場の敷居が高くなってしまうのです。そうこうするうちに、道場に通う事が馬鹿らしくなって、やめていくというケースが多かったのです。私の場合、結構つらいことが多かったのですが、黙々と絶対に従ったという事だけなのです。
 さて、昇級や昇段をしていくときは、そのレベルの内容をしっかり確立させなければならないのです。それは苦労であり、基準に合格して初めて取得できる立場という事になるのです。そのことを理論的に整理していかなければ、途中で挫折してしまうのです。要するに、絶対に苦労して従っていくという思想がなければ、ハゲタカの餌食になるだけなのです。昇級・昇段という道は、そのような事なのです。極真の理想を求めようとしたならば、その立場を乗り越えていかなければならないのです。それを踏み外したときに、段位は奪われ、何の価値もなくなってしまうのです。ある弟子は、不平不満をぶち上げ、自らの正当性を主張しましたが、それで終わってしまうのです。仕方なくても、伝統の道を行かざるを得ないのです。私も若かりし頃は、いろいろ思う事もありましたが、不平を言わず、時には泣きながら行くという決意をしたものです。
 ところで、私が才能というものが在ったかというならば普通の「中の中」というポジションでした。しかし、どんな苦労があっても落胆せずに、希望の道に変えて歩もうとしたのでした。どんなに惨めな思いをしても、落胆せず歩んだという事だけなのです。そして、一段階ずつ、昇級・昇段をしてきたのでした。そして一つ一つクリアしていく中で、あらゆる極真の伝統の秘伝を伝授されてきたという事なのです。だから、いかに辛いことがあっても、最後まで、ひかれたレールを一歩ずつ歩むことに執念を燃やし、継続して貫くべきだと思うのです。それが、自分の勝敗を決める内容になってくるのです。
 私も、人生を歩んで、もう六十二歳です。長い年月を極真と共に歩んだと思うのです。それでも、一世紀圏内の生涯という事です。実に瞬間といわざるを得ないのです。まあ、そういう意味では、自分ながらの不満とかは抱かずに、稽古の日々を貫いてくれることを願うのです。特に、肉体の稽古だけでなく、段位が上がれば、気持ちの試練があります。現場に同情して、本質を失うという人達も現れます。それで、責任者に反旗を翻し、覆って人たちも多くいました。人生の無駄遣いはしないように、着実に積み上げていくことが、必要であると思うのです。最後まで耐え忍ぶ、押忍の精神を思い出してください。