2015年9月13日(八段語録2534)
心の刀を研ぐ

 まず、気持ちを整理しての一日です。武道家として、身体を磨き、心を磨くという事は、刀を研ぐことに匹敵します。一度、刀を抜いて使ったならば、研がなければ使い物にならないのです。日々の生活の中で、心身は消耗します。その消耗したままで次の日を迎えたならば、次のビジョンに向かっていくことはできないのです。意外と刀を研ぐという作業を忘れて、習慣的な生活をするようになっています。それを打破していくという気持ちを強く持つようにするというのが極真空手の道を行く私達でなければならないという事です。
 私の場合、昨日がどうであったかという反省をするのです。聖人ではないので、良い事・悪い事の交差するような生活をしていると思うのです。その日を振り返っての反省という事になります。その反省が刀を研ぐという意識になるのです。もちろん、良きことに関してはそのまま続行という事です。しかし、正義に則って、正しくない自分に反省という気持ちを持って、改めるという事です。私には反省するという事で、情状酌量の余地を残されているのだという気持ちを持つのです。悔悛の情は必要な事です。そうでなければ、傲慢になって、誰のいう事も聞く耳を持たない人となるからです。
 さて、どのような気持ちで心の刀を研ぎ反省するかというならば、どれだけ人の為に活動したかという事です。迷惑をかけてしまうようでは申し訳ないからです。誰かの為に役立つために刀を研ぐという事に費やす時間が無ければならないというのが私の主張です。当然家族の為、道場生の為、地域社会の為という実践をするのです。それは良い事ですから、心は弾むのですが、それでも反省は必要であるという事です。それが何度も表現している心の刀を磨くという事になるのです。
 ところで、常識的に考えて、利己的な貪欲な人達で維持される社会は長続きするであろうかという事です。もし、そのような生き方が繁栄をもたらすとするならば、どのような平和も安定もあり得ないという事です。そのような法則は決して存在すらできないという事です。常識的に考えてみてください。誰も目は必要だと思っています。見えなくなるからです。しかし、目は、全体の利益の為に存在するのです。全体の器官は共に共生しますから、お互いが大切であって、甲乙つけがたいのです。目の器官だけを主張して目が存在することができるかという事を考えれば、それだけでも無謀という事です。
 今日一日を振り返って、大した収穫は無いのですが、それでも今日に感謝です。自分に降りかかってくる課題は、亡くなった親父も、先祖も越えてきたことなのかもしれないと思うのでした。別に先祖の祟りだとかという事ではなく、なすべきことを、親父も先祖もしようとしてきたことであろうし、そして私も実践しようとしていることだと思うのです。それが、強く思わされて表現しているのかもしれません。そしてその内容は、間違いなく自分の心の刀を磨くという事であると思うのでした。