2015年9月3日(八段語録2524)
修練の結実

社会とかけ離れた生き方をしてきた私が、どうだったのかという反省する時期でもあります。一般の会社に勤めたこともなく、修行一筋で歩んできた自分が、何であったかという原点にも返らなければならないということです。もちろん、生活していかなければなりませんでしたから、原点は、すぐにお金になる事業を始めたのでした。廃品回収なり、自分で商品を仕入れて、自分で売るという逞しいものでした。私の青春時代は、戸別訪問も「あり」という時代でしたので、時間も、人からも束縛されることもなく、実践すべき事は何でも、取り組んだのでした。それも修行の一環ということでした。そのような意味では、今の若者に対して、事業家になる気持ちで、開拓の人生は歩めないものかと思ってしまいます。そのことは別にして、そこで、学んだことは、大いに為になりました。自己中心主義での利己心での関係は、お互い破滅につながるということです。仕えることも、仕えられることも望まなかったので、ただただ修練に勤しんだということなのでした。それ以上に人を大切にするという意識を持ったのでした。
 さて、主体性を強調してプラスの意識で向かってくる人に対しては、マイナスになるだけだと、形だけでも対立を避けてきました。互いに反発しあうのを好まなかったからでした。反発を増幅させた結果が目に見えているからということも考えたからです。それは、いつの間にか、自分も動機が利己心に染まっていくことを避けたかったのでした。振り返れば、多くの詐欺師に出会いました。それは、私が心身を鍛錬して修練している限り、通過していく人になっただけでした。決して引っかからなかったようです。私自身、利己心という、引っかかるカギを持ち合わせないようにしたということが大きかったのだと思うのです。欲望の渦巻く世間で、修道者以上の聖なる気持ちを抱けたのも、極真空手という、自分に対して、偽らない修練の道を歩んだからだという確信を持つのです。その意味では極真は地上最強でした。
 ところで、何を人生で今までにどんな種をまいてきたのだろうかと考えてしまいます。経済活動に重点を置くことなく、極真の修行を開拓したのですから、何が収穫することができるのかということだと思います。それが、今気になります。一般の社会のルールでない生き方を率先してきたのですからということです。それでも罪を犯して歩んで来たわけではないのですが、評価されるのが人生の終盤である今のような気がします。それにしても、人を蹴落とすような歩みはできなかったし、してこなかったのです。それが私の誇りでもあります。他人に対して良くしてあげられれば、それで良いという気持ちが強かったようにも思います。
 そんな気持ちを書きながら、今日は会長の自宅に向かってから、成田空港に向かいます。そのわずかな時間を使って、何やら書いています。カナダでのキャンプですので、それなりに、気合を入れて、指導に当たりたいと思うのです。どのような指導者なのかと自らを振り返りながら、すべてを投入しての人生として出発していきたいと思うのでした。これも自らを超えて指導することが繁栄につながるという意識で奉仕していきたいと思うのです。伊藤師範が頑張っていますから、それに応えようと思うのでした。