2015年8月27日(八段語録2517)
故障する車
結構、私の場合、車に例えると、故障することが多いのです。険しい岩の道を通ると、すぐに故障です。故障してしまうと、それ以上行くことできなくなってしまいます。それで、修理しなければならないのですが、その時に、修理する能力が無いと大変です。それで、能力がない場合には、長い期間かかります。私の場合、そこを抜け出していくようです。能力が無かったら死人のようになってしまいます。私は、まだ死んでいないのですから、それなりの能力が蓄積されていたという事だと思います。また、そのような人生の旅路を来たという事です。
ところで、私の場合、故障した時なのですが、すぐに修理しようと思わないのです。前に前進して、運転しようとせずに、勝手に故障した車から降りて旅行に出かけてしまいます。特に、若い時には、お金がないものですから、寝袋一つリックに入れて、野宿しながれでも、出かけていくのです。そのような事を続けて、全国、行かなかった町は無い程に歩き回りました。というのも、本当に私は故障し続けてきたのです。何をどのように車を修理していいかという事も分からないので、旅に出かけたというのが本音でしょう。時には一日、一週間、一か月と、長い時には一年余り彷徨の旅をしたのでした。そうする中で、悟ることがあるのです。そして悟った時から、車の修理が始まるのでした。
そんなこんなで、今まで来たのですから、一生は早いという事です。車を修理しながら、ああたこうだしているうちに、四十歳を越えたかと思えばすぐ五十歳であり、そうこうしているうちに十年間は早いもので、いつのまにか六十歳を過ぎて今に至っているのです。「一場春夢」という事でしょうか。それでも、できるだけ、修理する能力を磨いての人生という事です。しかし、多くの人は、修理しないで、壊れたまま廃棄物になっているように思うのです。人生一代というのは、つかの間です。それは、ここまでくると、実感なのです。
そこでの車の修理する能力というならば、極真空手のように、自分と向き合う事ができる武道は最適であるという事です。基本があって、移動があって、型があり、そして仕上げが組手ですから、それなりの人生に対する指示が与えられます。稽古している内容が、人生を運転する為のノウハウが蓄積されているのです。特に、組手は、道場内であれば、相手が良く分かるので不安なく闘う事ができますが、それが試合であると、どのようにすべきか、自分の日頃の稽古によってのみ対応することができるという事になります。
最近、千順さんとの会話をするのですが、いつも言われるのが、「ああしておけば良かったのに」「あれができなかったから失敗したのね」とかなのです。そういえば、あるグループの人達の話も、「あの時にこうしておけば一遍に良くなっていたはず」という話を聞くのですが、私にはうわの空にしか聞こえないのです。それはというのは、人生短かったということなのです。今、この瞬間にどうすべきかが勝負でしょうと言いたくなってしまいます。試合は、一瞬で決まります。もちろん反省は必要ですが、瞬間主義に徹して何事も解決すべきであると思うのです。その為の修理能力の蓄積であると思っているのです。このような事を大切にしています。もちろん、千順さんとの会話も反省としては大切です。