2015年8月20日(八段語録2510)
気持ちの分岐点 与える姿勢

 今日は朝から街頭に立つ先生と一緒に話をしていました。久しぶりの会話でした。いろいろ心の葛藤を感じながらの次への任期に対する姿勢を話していました。色々な事に、いろいろと感じるものがあるようでした。私は聞くことが仕事のようですが、それでも、地域社会や日本が病んでいるのを見かねての武道教育を推進しているのです。私の場合、まだまだ喜びの少ない社会に対する切り口を極真空手で切り開こうとするのです。狭い切り口での改革ですが、それでも、一方は全てに通じるという信念でもって対応するしかないと思うのでした。
私の場合、この分野からの社会改革を成していくということなので、幼きこの身を捧げて、この道を開かなければならないという役割があると割り切るのです。それが、何の役に立つのかと言われがちですが、この道を全うするにおいても、楽な道は待っていないのです。苦労の道を行かなければならないのです。もちろん、犠牲を払わなければならないのです。そういう立場に立つのですから、私としては何も惜しむ気持ちを持たないようにしようとするのです。さらに辛いとは、夢にも思わないようにしているのです。
 さて、日本を守った英霊たちは、つらい立場に立ちながら、日本国を守ってきたのです。私たちにおいても、極真の伝統に群がる多くの道場生が世界で待っているのです。ただ強くなるだけでなく、日本の精神を心待ちにし、その一端にも触れる事に、感動してくれるのです。それは、まさに極真空手という日本の武道が、世界の多くの道場生に救いの手を、求めているということだと認識するのです。それ故に、自分の姿勢を多くの人のために、尽くすという努力をしようと思うのです。もちろん、自分自身や家庭にも課題がないわけでもないし、自分のことだけでなく、辛さを忘れて、多くの人の為に、努力するだけなのです。
 そう考えると、自分の立場だけを考えて、行動をすることはできないのです。多くの道場生の成長を私の立場から、出発しなければならないということなのです。親が残してくれた物もあるし、余生を安楽に暮らせば、それでいいと思う心あるのですが、人類に私に何が貢献できるかと真剣に考えても、極真空手という切り口しかないという結論に到達してしまうのです。道場生の成長は、まさしく私の手にあるという確信を持とうと思うのです。多くの道場生の成長は、私の手より始まり、道場生の幸福も私から始まるという気持ちを忘れずに投入しようと思うのでした。そういう意味でも、指導者としての決意を揺るがないものにしようと思うのです。そんな気持ちでした。
 今日の一時から甲子園での高校野球をテレビで観戦していましたが、残念ながら、負けてしまいました。追い上げてからの9回表の4点の失点でしたので、奇跡を信じましたが、起きませんでした。それでも、手に汗握る試合に夢中になって応援していました。とにかく、残念です。そして、私の生きている間に、優勝して欲しいと思うのでした。そんな一日を過ごしてきました。夜には道場の指導者研修で、講和を担当してきました。自らを磨くのは何のためにかという根本的な問いかけをしてきました。答えは私が出すのではなく、道場生であると思うので、あと講和の感想でも聞こうと思っています。