2015年8月18日(八段語録2508)
日々の闘う姿勢

 今日は母と一緒に、母の実家の金森に出かけて、墓参りです。気温は高いのですが、風が流れるようになびいて、とても気持ちが良いのでした。泉ヶ岳のすそ野の墓地は、寺があるわけではなく、古くからの先祖伝来の墓地です。そこには、金森従之叔父さんが、山から引いてきた水道があり、水を貰い、訪ねていくと、先祖が暖かく迎えてくれます。母も金森の墓地まで登っていくのが大変な年齢ですが、それでも気丈にも一歩一歩登っていくのです。そこから本家も近いので、仏壇にもお花を添えて、ご先祖様に感謝の祈りを捧げてきました。母の妹の家が近くにあるので、そこで母を降ろして、私は、根白石の畑で、草刈りをするのでした。草刈り機の音を静かな里山に響かせながら、秋野菜の下準備をしているという事です。日差しは強く照り付けるのですが、お盆の風が優しく横切ってくれます。それだけでも、生き返るような気持ちになります。
 さて、私の心はいかなる心なのかと分析すると、草刈り機の爆音を響かせながら、現役の真っただ中であると思ってしまいます。人生に対して闘う心が、草を刈るように挑もうとするのです。どんな敵とも戦う事ができる心、そして、経済的背景も気にせずに、たとえ飢えたとしても、死を覚悟して堂々と出ていこうとする、勇気が内在しているということです。年金や日々の細々とした生活にならないようにという事です。今も、そしてこの一瞬もやらなければならないことは、自分自身との闘いであり、どのような環境にもめげずに、どんな試練にも立ち向かっていこうとする気持ちという事です。このような姿勢になれるのも、極真空手のお陰であるという事です。そのような気持ちで草刈り機を手にしているのです。
 ところで、このような姿勢は、何も極真空手をやっている人間だけが持つ特権ではなく、地域や国を思う人が持たなければならない姿勢だと思っています。まず自分自身を克服するというのが一日の始まりであり、物欲に負けないで、人としての威信を維持し続けるための努力であると思うのです。誰もが、経済的試練は多かれ少なかれあります。それはどんな形にせよ、越えていかなければならない事であり、能力が試されることです。そのような事で、人を恨むという事は、何であれ、しないという固い決意です。もちろん、今の生活環境に満足しているわけでもなく、それ以上になろうが、以下になろうが構わないという気持ちで生きているのです。一言でいうならば、安住してしまったらおしまいという事です。つまるところ、今の生活に未練を持たないという事です。そのような姿勢を持たないと、私が進むべき道は破壊してしまい、家族が分裂するかも分からないという危機意識を持つようにしているのです。ちょっと大げさかもしれませんが、大切な心構えだと思っています。
 親戚の家から、母を車に乗せて、帰るのはもう7時を回っていました。消防署を今年退職した鉄夫君がビールを飲んでいました。農家ですから、ゆっくり時間を使っているのでしょう。親戚家族を後にしながら、自分がやるべきことを、念頭に置きながら、岐路に付きました。帰ってからは、茂奈さんのお母さんと一緒に、親しく食事をしながら、その後、自分に課しているトレーニングをしながら、疲れた身体を労わるように、寝入ってしまいました。