2015年8月16日(八段語録2506)
名は体を表す
森家も息子から孫の代まで繋がったことで、ちょっと安心することもあります。血統の連結という事になります。やはり、未来の世代を見出すという事は、飯を食べるよりも、着飾ることよりも、寝ることよりも遥かに尊く感じてしまいます。毎日生活をしているのですが、このように孫の誕生に直面でき、新たな生命と共に人生を過ごすことができるのですから、幸せを感じてしまいます。毎日のように食事をしているのですが、人生の節目に、このような重大事件に遭遇するのですから、生きていて良かったと心から思えるのでした。どんな財産より、価値あるものが生じたという事です。息子の時と違って、私の接し方は全く違うのだと思います。そして、これから内外共に成長していく孫が、生き甲斐という事にもなるのでしょう。そんな気持ちが沸き上がってきます。それだからといって、孫が可愛いいだけの、人生にはしたくはないのです。それなりに、私自身も成長しなければと思っています。
さて、孫の名前ですが、息子は、「士紀雅」と命名しました。もちろん、私が思いつくはずのない名前です。息子は、茂奈さんが身ごもってから、あらゆる検討して、画数にこだわったり、文字数にこだわったりして、思いを具現化した名前という事です。孫の人生に、この名前が表現されるのであり、それに相当する人生を歩むのであろうと感じるのです。名は体を表すという事でしょう。いうならば、名前の実態になるという事なのです。この名前から推測するに、やはり、武士という事でしょう。森家の血統は、士族の家柄で、伊達藩に仕えた藩士という事です。さらに、息子を極真空手で幼年時代から育てた影響を、すべて受け継いでいるようにも感じてしまうのです。今の息子を見て、立派に育ったと自画自賛してしまうのです。親バカという事でしょう。
ところで、名前は名前、実体は実体というようにはなっては欲しくないのです。我が息子には、聖義と付けました。これは、聖人義人になって欲しいという親の願望です。私の場合、画数や姓名判断にこだわりませんでした。名は体を表すという事だけでした。その為か、空手を習っていても、決して息子は暴力を振るったことはないのです。ましていじめられても、反撃したりもしませんでした。そしていま、正しい道を歩もうとしている気がします。名前は、生きている息子に存続して、完成すべき運命を担っていると思っているのです。名前が息子に下されてからというもの、友達にいじめられたり、からかわれたりとしたそうですが、今は、良き実績が息子に現れて、この名前の人になっているようにおもうのです。それだけに、いろいろあっても、孫はその名前の実体になっていくに違いないと思うに至っています。私も振り返れば、名前を持って生きてきました。義道ですから、決して曲がったことはしなかったし、犯罪に汚れることは無かったのでした。今はこの名前に誇りを持っているのです。
お盆休みの最後の日、妻と一緒に、「日本で一番長い日」という映画をみてきました。確か、去年は「ゼロ」でした。日本民族の素晴らしさ、敗戦しても、未来の日本を思って、責任ある行動を取る英霊達が存在したという事に、誇りを持つのでした。日本の行く末をこれから、私も展望しながら、誇りある国にしていきたいという願望を持つのです。そんな映画鑑賞になりました。妻は横で静かに休んでいました。ちょっと寝息も聞こえてきました。