2015年8月6日(八段語録2496)
仙台七夕一日目の平凡な日

 妻の千順さんも、広島の実家の八幡に到着して、弟の千行さんの面倒を見て
います。身体も病んでいますが、心はもっと荒んでいるようでした。そこはお
姉さんの千順さんです。しっかり弟の面倒を見ているようでした。親戚を回り
、挨拶をしながら、近所付き合いが深い地域ですので、丁寧に千行さんの事を
、お願いするという事でした。我が家も大切ですが、妻の千順さんの実家も同
じぐらい大切なのです。そのような気持ちの維持をしなければならないと思う
のです。そのような環境が整ってきて、広島に行くにしてもエアラインで二時
間もかからないし、レンタカーを空港で借りれば、自由自在に動くことが出来
るのです。お金は多少かかりますが、それ以上に親戚との絆が深まります。そ
のような時代の恩恵を受けているのだという事です。もちろん、そんな遠くか
らお嫁に来なければ良かったのにと言われそうですが、愛は地域を越えてしま
うものです。
 一人仙台で寂しくしているのですが、娘たちは七夕に浴衣を着て出かけてい
きました。今日仙台七夕が始まりました。昨日は花火大会で一万六千発も綺麗
に夜空に花を咲かせていました。私はというならば、地道にスポーツクラブで
トレーニングを重ねているのです。健康に感謝しながら、まだ肉体を維持し鍛
えることが出来るという事です。それで、二時間余り汗を流しました。そうす
ると、実に気持ちがいいものです。神聖な気持ちになるし、接する全てが聖な
るもののような気がします。物に対してもそうなのですが、それ以上に、極真
空手に携わって、歩んできた全てが聖なることのように思えるのです。このよ
うな武道人生を歩んできたので、思い出そのものが聖なる思い出に感じるし、
タッチしてきたこと全てが栄光と感じるようになっているのは、年齢を重ねた
からという事でしょう。 
 ところで、今まで多くの人と接してきましたが、気持ちの悪い接し方が少な
かったと思っています。自分の心が多くの人に接しる中で、後味が悪かった接
点が少ないのです。それもこれも、極真会館というラベルを付けて、歩んでき
たからという事なのでしょう。私の気持ちが、このラベルですので、公明正大
という事に徹してきたという事です。そして、この手で触れた人たちが、多か
れ少なかれ、私と同じ恩恵を受けてきたという実感をするのです。何を言いた
いかというならば、私には心と体があるのです。私に二人の人がいるようです
。それだから、私の身体が聖なる動きをするならば、心も同じように聖なる気
持ちになるのです。私が聖なる気持ちで身体に触ってやれば、身体が喜んでい
るという事です。
 そんなことを考えながら、夏の暑いひと時を過ごしています。妻の千順さん
がいないので、一人で休むのは寂しいものです。テレビを見るわけでもなく、
ラジオをつけるわけでもなく、ただ天井を見上げて、一日のあったことを振り
返っているのです。もう年齢を数えれば、それなりなのですが、そのような事
など感じず、青年の心そのままで、今いられるという事に不思議さを感じてし
まいます。夜中の十時が過ぎると、娘たちも街から帰ってきました。楽しい話
を聞かせてもらいました。特に茂奈ちゃんの妹は、仙台七夕が初めてという事
もあって、興奮気味に話していました。ゆっくりと時間だけが過ぎていきます
。それも良いものです。