2015年8月1日(八段語録2491)
戦いの最終日
泣いてもわめいても、今日一日という歩み来ました。今回、今取り組んでいる世界は、善悪の判断に対して、訳が分からないというところです。対処的にそのようになったのでしょうが、あることをすれば悪であり、そうでなければ善という事です。それだけに、行動には気を付けなければ、違反になるという事で、最悪の結果にもなるという事を頭に叩き込みました。今活動している世界に住まなければ分からない事ばかりですので、専門家にお伺いを立てながら、間違わないようにという気持ちになります。それにしても、全くかけ離れた善悪観に何とも言えない気持ちになります。餅屋は餅屋に任せなければ分からないという事でしょうか。ここで言いたいのは、人が作り上げた善悪観の定義はないという事です。そのような意味では、私の修業とは全く関係の世界という事になります。私の信念としては、修行の場は、はっきりした善悪の定義があるのです。そして、それは変わることがないのです。一生私の場合、変わらないでしょうし、変えるつもりはないのです。
さて、私の生きい方は、武人としての生き方ですから、選手時代は、勝つために、かなり利己的でした。どのようにしたら相手を攻略することができるかという事を真剣に考えたし、その対応に日々時間を費やしてきたという事でした。自分自身に何もない修業の時でしたので必死という事でした。たった一人で、戦ってきたという自負心は自分以外の何者も意識しなかったという事です。しかしながら、故郷に帰って、それも、師範として行動するようになってからは、私の中に相手という存在が完全に弟子として、形に現れ始めたのでした。そのような意味では、弟子の為に、全精力を尽くすようになって、さらに、その弟子の為に生きようとする気持ちが大きくなっていったのでした。今までの極真会館宮城県本部の発展はどういうことかと分析するのですが、弟子に自分自身を投影して、尽くしていくこと以外に何もないという事でした。
ところで、そんな事を考えている自分ですが、この戦いの最終日に思うことは、すべての力を投入し続けて、悔いがないという境地にまで至っているという事です。思いが形になっているという事ですから、創造という事以外にない発想にしています。そして、時間を費やして、投入に投入を重ねて完全投入ですから、もちろん、悔いはないという事です。私のエネルギーの投入が間違いなく創造に当たるのです。完全投入ですから、ほんの一滴のエネルギーも取って置くという事はない境地でした。この期間が私の一切の仕事であり、私の努力することができる心と魂のすべての投入という事になりました。そのような意味では、思い出の期間ということであり、悔いを残さない時を過ごしたという事です。
最後に大講演会が開かれました。多くの人に話しかけておられました。私はというならば、そこにいて、戦いの一切が終わるのだという事を思い描いていたのでした。その後、自宅に戻って、疲れた体を休めていましたが、過ぎ去った日々が走馬灯のように浮かんで、寝付けないという事でした。とにかく終わりました。妻の千順さんに迷惑をかけたことを誤って、好きなことを十二分に歩ませてもらったことに感謝させていただきました。とにかく、終わりました。結果は天のみぞ知るという所の境地でした。