2015年7月31日(八段語録2490)
戦いはこんなもんでないでしょう

 今月の最終日ですが、戦いは絶頂期です。ここで心構えとしては、目的を達成するために、勝利を占領するために、どれだけ奉仕の精神でいることができるかということであります。生命を持った者として、最高の理想を追求するのは、当然のことであります。そして、その理想の特権を持っているのも人間という事になります。私自身の姿勢は、全体の為に奉仕し、相手を重要視して、活動することが、生き甲斐があることであると思っているのです。とにかく、今は投入して、また投入して、どのぐらい投入したのかを忘れるぐらいの戦いをしているということです。姿勢は、極真を求めていくということでしょう。そのために、心は為に生きるということを主眼点にして、肉体の続く限り歩み続けるものであると思っているのです。何も考えずに心と体が共鳴する境地にピタッと入るような心境になるということです。
 そのような境地に立つと、地域のことが見え、時代の環境が見え、歴史が見え、すべてが見えるようになる思いです。とにかく、戦っていく環境の中で、あらゆる関係を結び、因縁を結び、良き動機で歩むことに全力を尽くすことが、あらゆる境地に入っていくことができる原点になると思うのでした。極真空手の最高の境地は、八段にもなると、柔和謙遜になれということです。そうしなければ、あらゆる法度に通じなくなってしまうという思いに駆られます。そして、現実には、より高い犠牲を強調し、奉仕を強調せざるを得ないという結論に至るのです。何とか、地域の中心に立ってもらいたい人に、全力で奉仕することは、決して悪いことではないのです。ある意味でで、子供が親に尽くすような心境でもあるのです。そして、あらゆるものを準備していこうとするのです。そのような与えたい心が連結して、基盤ができるならば本物であると思うように至っているのです。
 ところで、自分以外の事に没頭することは、利他主義の心境に立たなければ難しい話です。私は、具体的な立場の中心者になろうということではなく、より奉仕の中心者になろうという思いが強いのです。結構、若い青春時代は、ボロを身にまとって、全国を行脚したのでした。世俗的価値観を見出そうとしたのではなく、生き方、死に方をブッタのような境地で歩みたいという思いがわいてきたのです。そのため、他人の為に生命を捨てるということが、修行の一環ということを自覚し続けてきたということでした。だから、今でも良い生活をしよう等とは思わないのです。死んで道端で倒れても良いというような、思いの戦いということです。その倒れた場所に、花が咲けば良い位の気持ちということです。
 今日は、ヒートアップするような暑さでした。それでも、朝四時半起床で、戦い抜くという凄まじい強行軍を自分に強いて、絶対勝利の礎を築こうとするのでした。本人ではなく、支える側の勝利を目指そうとするのですから、世間的には、お人よしのいいところですが、私としては真剣そのものなのです。そんな人生を歩んできましたので、これも想定内の事なのです。もちろん、肉体は異常に強靭です。そして、精神は更に、強さを増しているのです。そんな戦いに、自分で酔いしれているのですから、人が良いということでしょう。そんな自分が大好きです。